劇評 91 

絶対的な、美、を前にしたら、もう、涙するしかないかもしれない。

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

「パレルモ、パレルモ」

2008年3月20日(木・祝)雨
テアトロ ジーリオ ショウワ 午後2時開演


「フルムーン」

2008年3月30日(日)曇り
新宿文化センター 大ホール 午後2時開演


演出・振付:ピナ・バウシュ
美術:ペーター・パプスト
衣装:マリオン・スィート
出演:ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団
場 : テアトロ ジーリオ ショウワは昭和音楽大学の劇場である。新百合丘である。初見である。正方形に近いプロセ二アムでタッパがある。HPで画像を見て感じた印象よりは小じんまりとしていて観やすい環境であると思う。真紅の緞帳が掛かっている。新宿文化センター 大ホールは、会場に入ると既に幕は開き、舞台上手奥に大きな岩が設えてあるのが見える。
人 : ほぼ満席。テアトロ ジーリオ ショウワは、やはり、学生らしき若者の姿も目立つ。観客の雰囲気は、全体的に見繕いにも気を遣うお洒落な人が多い。芝居の観客層と明らかに違う人々が集う。

 「パレルモ、パレルモ」は衝撃的な幕開きだ。今まで噂には聞いてはいたが、実際のこの演目が観れるとは、観る前からドキドキものであった。




 開演のベルが鳴りしばらくすると真紅のベルベットの緞帳が左右にスルスルと開いていく。すると、灰色の巨大な壁が立ちはだかっている。高さ5m、幅14mあるらしい。1〜2分位であろうか、全くの無音のまま、壁は威容に聳え立ったままだ。すると、何の前ぶれもなく、その壁はそのまま舞台奥の方向にいきなり崩れるのだ! いきなり廃墟。その崩壊の仕方だが、意外にバラバラに散逸することはなかった。崩れて分かったのだが、壁はブロックの積み重ねで構成されていたようだ。黒服のスタッフの方々がダンサーたちと混じり、ブロックの位置を直したりして、その場を整えていく。ステージはそんな中スタートしていく。




 パレルモに行ったことはないが、ヴィスコンティの「山猫」に見るシチリアの風景は砂と埃と風が印象的であったが、その空気感と、シチリアの地に刻まれてきた遠大な歴史の重みを表現していく方法として、こういう場を作り出すことになったのであろう。決して崩壊が主題ではない。大地からエンパワーされる人々の底知れない逞しさが、のっけから強烈に叩きつけられてくる。




 様々なエピソードが紡がれ、微笑ましくも逞しい人間たちを描写する構成の見事さは、ピナの真骨頂である。特に印象的だったシーンなのだが、背景に青空と雲が拡がる舞台手前に6台のピアノが並べられ、そこに昭和音楽大学の学生も混じった6人の男性奏者が現れ、ピアノに向かい、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の一部を連弾する、そのシーンである。1つのことを同時に奏でていくということ。言葉も説明もないのだが、ジーンと胸が締め付けられ目頭が熱くなっていった。何故なのかが、自分にも分からない。ただ、こういうシーンに出会うために、ステージを見続けているのだなあ、と漠然とその光景を注視する自分がいた。




 ラスト、男性ダンサーと女性ダンサーがそれぞれ横1列に並び、アタマの上に林檎を載せ舞台前にゆっくりと進み出てくるシーンも強烈だ。無言で訴える何かを感じ取るのは、観客それぞれの感性に委ねられていく。理解と不寛容。このことがアタマの中を駆け巡る。




 「フルムーン」は、また、趣を変えた出だしである。岩だけがある空間に男性ダンサーが2人現れると、手にしたカラのペットボトルを、手で振り上げ振り下ろしていく。観客はその行為と、微かにそのペットボトルの口が奏でる音に集中していく。一挙にステージの1点に観客の意識を向けていく。幕開きのこの見事さ!




 「フルムーン」は、水の舞台であった。舞台後方に左右幅一杯に水を湛え、まるで川のような設えである。題名にあるように、満月と水との密接な関性を彷彿とさせるが、人はこの自然の驚異の中で自由に自分を解放し本能を露わにしていく。水がその媒介として大きな役割を果たしている。雨が降りその下で乱舞し、バケツを持ち出し満々と湛えられた水を掛け合い、まるで子どものように騒ぎ出す。童心が疼き出す。




 この掛け合う水が、弧を描いて空中に撒かれる様は、もう何にも例えようのない美しさに満ち溢れている。そこには、照明のテクニックを駆使した仕掛けもきっとあるはずであろうが、まるで水が生きているかのように飛び跳ねているのだ。高速度カメラでも使っていれば別であろうが、裸眼なのに、まるでスローモーションのように、水の一粒一粒に生命が宿っているかのように見えるなんて、これは、驚異、である。




 一生、忘れられないようなものを、また、見てしまった。カーテンコールのピナは相変わらず謎めいた微笑みを浮かべていた。その超然とした姿に、また、涙してしまうのだ。もう、泣き虫野郎である。でも、絶対的な、美、を前にしたら、もう、涙するしかないでしょう、と自問自答の私でありました。