劇評87 

壮大な物語に人間の悲哀を滲ませた、心に染み入る秀作。

「リア王」






2008年2月2日(土)晴れ
彩の国さいたま劇場大ホール 午後6時開演

作:W・シェイクスピア
演出:蜷川幸雄
出演:平幹二朗、内山理名、とよた真帆、
 銀粉蝶、池内博之、高橋洋、渕野俊太、
 山崎一、吉田鋼太郎、瑳川哲朗
場 : 初日から2週間経っているので、贈られてきた花も大体がロビーから撤去され、寄贈者の名前が壁に貼ってある。売店にも列はなく、パンフレットもスムースに購入できた。当日券も販売していた。会場内に入ると、舞台には木戸の幕が下りている。
人 : ほぼ満席。演目の影響なのであろうか。総じて年配の方が多い。ご夫婦、友達同士、あるいはひとりなど、小単位での来場が目立った。

 泣けた。しかし、「リア王」で泣けるとは思わなかった。かつて何作かの「リア王」を観てきたが、これ程迄に物語が心に染み入ってきたのは初めてだった。改めて、「リア王」という戯曲の素晴らしさを発見すると同時に、そのテキストを読み解き具現化する役者やスタッフの才能に脱帽した。




 良く知られたリア王と3人の娘たちの確執は、あくまでもコトの顛末の序章にしか過ぎない。冒頭でリア王は、長女と次女に王国の分割を提示し、甘言を吐かない三女コーディリアは追放の憂き目に会う。これまでは、娘の本当の気持ちが理解できないリア王の暴君振りがクローズアップされてきたきらいがあるが、ここでは、まあ財産分与のためなら歯の浮くような嘘も言うかもしれないなとか、もう親は年寄りなんだからもっと優しく気持ちを汲んでやれよとか、娘たちの裏腹な心情にヤキモキしてしまう。




 しかし、リア王は一貫して自分のスタンスを変えることはない。いや、変えられない。そういった世代間のズレが生じ、溝は一層深くなっていく。ある意味、旧世代と新世代の世代交代の話として読み解くこともできる。そして、一旦権力を握った者の豹変振りも人間の業の深さを付きつけられ驚愕とさせられる。自らが、法、となっていくのだ。不倫の証拠の手紙を突き出されたゴネリルは、「法律は私のもの、誰に私が裁けるのか」と全く意に介することがない。




 グロスター伯爵とその息子たちのストーリーは、娘たちとの関係性とはまた違う角度から物語を照射し、「リア王」の世界観を更に広げていく。嫡子と庶子の身分違い。男の嫉妬と権力の奪取。持たざる者・庶子エドマンドが成り上がっていく凄まじいまでの念が、王女たちとの色恋と絡み、公私の心情を複雑に織り成していく。また、翻弄された嫡子エドガーが流浪の旅路を経て帰り咲き、状況を転覆させる様は爽快だ。




 父・グロスター伯爵は、新世代の時代の大きな潮流の犠牲となり、翻弄され世に放り出されてしまう。荒野でリア王と出会いシーンが印象的だ。リア王は狂気の沙汰に陥っているが、グロスター伯爵を見てその名前をしかと呼びかけるのだ。言葉なく嗚咽する伯爵の姿に思わず涙する。また、リア王の忠臣・ケント伯爵は、本当の姿をひた隠し、リア王を守り抜く。この旧世代の男たちが、実にイイのだ。敗残者の悲哀がズキズキと胸に突き刺さる。




 平幹二朗は至宝だ。この壮大な物語と多種多様な役者たち全てを集約してしまう磁力が備わっている。豪放だが繊細。老齢のひ弱さと王としての威厳。人間のあらゆる心境を実に丁寧に表現していて絶品である。吉田鋼太郎は前述のリアとの再会シーンの他、息子エドガーと知らずに道行を共にする場面など、この男の哀れにグッときて涙してしまう。エドマンドの池内博之がいい。リチャード3世のように悪の階段を昇りつめていくその姿に色香が漂う。ゴネリルとリーガンが思わずなびいてしまう、底辺から這い上がろうとする者独特の力強さに満ち溢れている。銀粉蝶のゴネリルが親しみ易いキャラクターを造形している。揺らぐ迷うことのない女の芯の強さがストレートに突出し、不倫を疑う夫に向かい「しつこいわね!」と言い放つ様はまるでソープオペラだ。卑近であるが故に可笑しいのだ。




 人間のあらゆる欲望や様々なカタチの愛、そして裏切りなど、世界をそのまま縮小したかのような物語は、幾百年の時を経た現代でもストレートに心に飛び込んでくる。虐待や殺人、不倫、権力争い等々、まさしくこの今の時代と何ら変わることのない出来事の連続に、人間の愚かさと同時に愛おしさを感じてしまう。最後に名言を一言。「生まれ落ちると泣くのはな、この阿呆の檜舞台に引き出されたのが悲しいからだ」。ホント参りました。珠玉の台詞のオンパレードです。イチから出直します。