劇評82 

若い才能が切り拓く新たな「オセロー」の解釈。

「オセロー」

2007年10月7日(日)晴
彩の国さいたま芸術劇場・大ホール
午後1時開演

作:W・シェイクスピア
演出:蜷川幸雄
出演:吉田鋼太郎、蒼井優、高橋洋、
    馬渕英俚可、山口馬木也、壌晴彦
場 : 会場に入ると緞帳が下りている。彩の国さいたま芸術劇場・大ホールの緞帳は、案外オーソドックスな印象であった。ロビーでは、パンフレット等と一緒に「オセロー」特製ハンカチが売られているのがご愛嬌である。
人 : 満席。老若男女、さまざまな人が集う。ひとりで観に来ている方々が結構多い。隣の人がビニール袋をガサゴソしていたが、芝居が始まると止めたので、ホッ。本人はあまり気付かないかもしれないけど、意外とうるさいんですよね、ビニール袋って。

 芸達者の俳優たちが居並ぶ中、蒼井優が演じる清楚なデズデモーナが、この「オセロー」の大きなポイントになっていた。通常の役者の演技術とは一線を画す、テクニックと言うよりはその存在感にて、一際輝いていたのだ。また、オセローとの年齢差が大きいということも、新鮮な驚きであった。翻訳の松岡和子さんによると、原本では、オセローが死んだデズデモーナに「my girl」と呼びかけるのだが、この呼称は父が娘に対してしか使われない表現であり、この年齢差キャスティングは、シェイクスピアが本来意図していたものに近いのかもしれないということである。キャシオーの復職を懇願するのも、若い娘のおねだりに近いものにも感じ、罠にはめられていくこの表裏のないデズデモーナの無邪気さが、ひたひたと哀れを誘ってくるのだ。




 イアーゴを高橋洋が演じるのも、また、楽しい。狡猾な戦略家というイメージがイアーゴにはあったのだが、高橋洋が感情を剥き出しにして吼える姿には、冷静沈着さはかけらほどもない。嫉妬という気持ちの昂ぶりをもはや抑えることが出来なくなった、ひとりの男の悲しさが浮き彫りにされていく。




 「オセロー」には、たかがハンカチごときに、大の大人が翻弄されてしまうことに対するささやかな可笑しさを感じてはいたのだが、イアーゴの幼稚なジェラシーが起点となって、少女のようなデズデモーナを巻き込んでいくこの本作の展開を観ていると、この浅薄な駆け引き振りが妙にリアルに見えてくるのだ。よくよく確かめてみればすぐにでも分かりそうなことを、案外鵜呑みにしてしまうという人間の浅はかさが炙り出されてくるのだ。高潔な将軍が知力ある部下に翻弄されてしまうという、そんな高尚な次元ではなく、地べたを這い回るような悔しさや悲しみが、戯曲の中から溢れ出てくる。




 オセローはイアーゴの企みにはめられていくに従い、だんだんと周りの状況が見えなくなっていく。もはや情報源の信用筋はイアーゴしかない。そうなると、見事にスッポリと客観的な視点が抜け落ちてしまうのだ。周りが見えないので、自己の千路に乱れる心に振り回される速度が加速していく。個々の感情がバラバラなまま、自分が知り得る微かな情報の接点だけを頼りに、自分の中であれこれと妄想を浮かべることになるのだが、それは、決して真実ではないのだ。吉田鋼太郎演じるオセローは、後半のデズデモーナに対する態度の豹変振りが少し極端かなとも思った。デズデモーナを愛していたはずの部分が、スッと見えなくなってしまうようなのだ。殺害に至るまでの昂ぶる感情と、愛して愛してやまない深い思いとが、もっとないまぜに交錯する複雑な様が観たかった。




 馬渕英俚可が凛とした佇まいでデズデモーナを支え、山口馬木也演じるキャシオーの生真面目さと酒癖の悪さが同居するその二面性が独自の存在感を与え、壌晴彦の登場は冒頭のみであるが、そのバリトンの響きは後々の展開にまで深く浸透していった。




 前回の蜷川演出の「オセロー」は、大階段を設え、水を張ってベニスの運河を再現する等豪華な美術であったが、本作は地方を巡演するという理由もあるのであろう、舞台上下と舞台奥に設えられた階段のみのシンプルな美術である。但し、シンプルであるが故に、役者の存在がより目立っていたとも言える。




 蜷川幸雄が見出す新たな視点は、蒼井優や高橋洋といった若い才能によって開花し、新しい「オセロー」の解釈が生まれたと思う。感情が行き交いほとばしる「オセロー」は、とても新鮮な驚きであった。