劇評79 

世界の才能のバトルに時間の経つのも忘れ、伝説のキャラバンへと迷い込んでいく。


「エレンディラ」


2007年8月12日(日)晴
彩の国さいたま芸術劇場・大ホール
午後1時開演

原作:ガルシア・マルケス
脚本:坂手洋二
音楽:マイケル・ナイマン
演出:蜷川幸雄
出演:中川晃教、美波、瑳川哲朗、国村隼、品川徹、
石井愃一、あがた森魚、山本道子、立石涼子
場 : 会場に入ると薄いカーテンが舞台前面から降り、微かに風を受け揺らいでいる。開場前には、彩の国さいたま芸術劇場内のアトリウムか何かで、舞台に登場するバンドのミニコンサートがあったようだ。
人 : ほぼ満席。女性の比率が高い。また、日曜ということもあり、カップルや夫婦での来場もチラホラと見受けられる。

 どういう経緯で、ナイマンが劇曲を書き下ろすことになったか詳細は知らぬが、このこと自体が、結構、画期的なことであると思う。しかも、原作は、ガルシア・マルケスであり、蜷川演出である。この布陣だけで、もう、何かしら匂い立つような危険な香りを感じてしまったのは私だけであろうか。




 冒頭、ナイマンの曲にのり、舞台の上空を、バスタブやエメラルドや魚がゆっくりと飛び交う幻想的なシーンで舞台は幕を開ける。少し「にごり江」の演出を彷彿とさせられるが、宙を浮遊する行き場のない魂と言うよりは、エミール・クリストリッツアの「アリゾナ・ドリーム」に出てくる空中を泳ぐ魚のように、まるで皆が思い描く集団幻想のような魔術めいた酩酊さが醸し出される。現実なのか、夢なのかを判然とさせない舞台なのだということが、はっきりと打ち出される。




 ナイマンの曲のリズムと呼応しながら、舞台の彼方奥から民衆の一団がゆっくりと現れて来てくる。いよいよ物語の始まりだ。一団が広場に着くと、そこには、翼の生えた男が倒れている。そのウリセスという男が、かつて愛した離れ離れになっているエレンディラという女のことを語り始める。そのウリセスが当時の物語を遡り語っていくのだが、後に3幕で作家が現れ、その物語を引き継ぐかのように、離れたふたりのその後を検証しながら、ある事件の真相を探求し始めていく。なので、語られる話は非常に過酷ではあるのだが、主人公たちの意識の向かう先は明るい未来であることが少しずつ実証されていくことで、作品全体の空気感がさらに自由に軽がると飛翔していくといった具合だ。この物語を書き記した作家が、その本質のスピリットを掬い取り、希望を抱くファンタジーへと転化させていくのだ。




 家を全焼させてしまったエレンディラは、祖母に娼婦として働かされ損害を償うよう縛られている。そんな時に、ウリセスという運命の人に出会い共に逃げるが捕まり、更なる監禁状態下に置かれることになる。そして、ふたりは祖母殺しを計画することになる。




 むせ返るような南米の熱気や臭気が意外に上品なテイストで描かれる。美術、照明などは美しく過剰さに溢れており、また、火、水、風など自然と真っ向から取り込み刺激的であるが、民衆たちの傍若無人な感性が小さな範囲に納まっていて、猥雑さがあまり立ち上ってこない。但し、キャラバンで移動する一団の無言のだらけ具合や、オレンジ農場で木々の下に座りこむ農民の様子など細かなところに猛暑の感じが見てとれ、温度を感じさせてくれた。民衆がもっと突き抜けた破天荒さを持ち得ると、作品がグッと厚みを増したに違いない。




 瑳川哲朗の祖母に迫力があった。肥満化した肉体の着ぐるみも我が物にしており、老賢人を演じて存在感があるのは重々承知ではあったが、巨大な老婆を演じて、色香と小賢しさと優しさと無慈悲さが同居する多面的な老婆の側面を作り上げ見事である。美波が新鮮な存在感で、この伝承の物語を大きく牽引していた。中川晃教は彼のピュアな部分が拡大され、それ故に悲劇に巻き込まれる哀しみが拡大され効果的であった。




 ナイマンのあの同じ旋律を繰り返しながら頂点へと立ち上るメロディは、この翼を持った男の物語を語る上で、重要なファクターであった。運命にあがなうパワーを作品全体に充填してくれるようなのだ。伝承の域に留まらず、この物語が伝説にまで成り得たのは、音楽によるところが非常に大きいであろう。世界の才能のバトルに、4時間もの時間が、あっという間に経ってしまった。至福の気持ち良さが、余韻として残った。