劇評78 

不必要なものが一切ない、潔い作品。

「The Last Laugh ラスト・ラフ」






2007年7月14日(土)雨
PARCO劇場 午後7時開演

作:三谷幸喜 
脚色:リチャード・ハリス 
演出:ボブ・トムソン
出演:マーティン・フリーマン、ロジャー・ロイド・バック
場 : 会場に入ると部屋の1室が既に設えてある。この部屋で取り調べが進んでいくのだなと思う。美術の、その細かな細工に、既に驚嘆してしまう。字幕は舞台上下の電光掲示板に流れるようになっている。席が前の方だったので、字幕が少し見難い状態であった。
人 : ほぼ満席。少し空席がある。外人の観客が結構多い。比較的チケットが取り易い公演であったか。また、ひとりでの来場者も多い。「笑の大学」との比較を楽しむ演劇好きな方々なのであろうか。映画版を観てということも、あるか。

 三谷幸喜作の「笑の大学」が、見事に英国のスタッフ・キャストによって、「ラスト・ラフ」として甦った。初演当時より秘かに、この戯曲、それこそロンドンやニューヨークに持って行っても十分通用するのではと思っていたのだが、そんな思いがまさか実現するとは想像もしていなかった。




 しかし、こうして、英国人によって脚色された本作を観ると、この作品がいかに普遍的なことを描いているのだと痛感させられた。4月に公演された「コンフィデンス」もそうであったが、三谷戯曲は、日本とか海外とかいう概念を超えたところにあるスピリットを掬い上げるのが卓越しているのだと思う。時代性を感じさせる風俗的な記号は、物語の主軸の中には決して侵入しては来ない。芝居に関しては、イギリスでは検閲は無かったようではあるが、戦争や芝居や情といったものは、地域や時代を特に限定するものではない。特に、情の部分だが、親愛・親子愛・夫婦愛・信頼・尊敬・哀れみ等、そういった感情に一喜一憂するのは、まさに世界共通なのだ。そして、その誰もが共有出来る感情が丁寧に描かれているので、思わず引き込まれていってしまうのだ。




 若干の相違はあるものの、大体はオリジナルに近い物語展開をしていく。まず、驚嘆したのが、美術セットだ。床のフローリングの木目の模様、ドアのデザインとドアノブのリアルさ、ドアの開いた廊下の壁やそこに置かれた椅子、電源のスイッチ、使い込まれた椅子、錆びたゴミ箱、大きな窓とガラスに貼り付いた汚れ、そして、丸く婉曲したドーム型の天井等々。セットという概念も、事実をリアルに積み重ねていくイギリス流は健在だ。また、演出過多にならないナチュラルな照明も、この物語にピッタリと合っている。




 マーティン・フリーマンとロジャー・ロイド・バックの人物造型は、台詞のひとつひとつを検証し紡いでいきながら、大きなひとつの感情や行動に繋げていくといったリアルな方法で、観客に対し明確に意思を訴求していく。観ていてどういう気持ちなのかが分からないということがないのだ。曖昧さを排除した表現は、観る者の創造力を喚起させないとも思えるが、実際は逆で、そう言う、そう行動する、といった言動の背景や根拠となるその人物の内面にフォーカスが当るといった具合なのだ。物語が拡散せず、深く沁み込んでいく。




 物語は進み、ラストへと近付いていく。途中、検閲する芝居をふたりが演じる姿が可笑しく会場からも笑いが起こる。しかし、検閲官と作家の間に芽生える、情、というものが、ことさら日本版よりも強調されていない気がした。あくまでも、それぞれの立場で考え、モノを言う関係性が成立しており、非常にクールなのだ。そこで、検閲官の息子が戦死したという日本版にはないエピソードが、ジワジワと効いてくる。微かにだが、検閲官は、出征するこの作家に、少しだけ息子の姿を投影したようなのだ。しかし、ことさら、その感情を強調する演出もしないし、他人を決して自分とは同化させない。野田秀樹の「THE BEE」の日英版の違いでも見られるように、自分に中に、他者は存在しないのだ。あくまでも、他者は、外にあるのだ。完全に自立しきったドライな関係性の上に、情が成り立っているというリアルが、また、物語の本質を曇らせずに、鮮明に浮かび上がらせていく。




 いい芝居を観たと思える出来であった。戯曲の奇異さや、演出の外連とはかけ離れた作品ではあるのだが、不必要なものが一切ない、潔い作品であった。迷うと、ついつい装飾したくなるんですよね。シンプル・イズ・ベスト。これに尽きますね。