劇評77 

日英バージョンが真逆のアプローチ。才能が集結した珠玉の作品。

「THE BEE」ロンドンバージョン






2007年7月14日(土)雨
シアタートラム 午後4時開演

原作:筒井康隆
脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
演出:野田秀樹
出演:キャサリン・ハンター、野田秀樹、
グリン・プリチャード、トニー・ベル
場 : 日本バージョンと同様に、入口の向こう側正面がステージになっており、ステージに向けて段々の客席が設えてある。ステージのセットは赤い壁に囲まれた家の中のような感じ。日本バージョンに比べると、リアルな作りである。
人 : ほぼ満席。後方にちらほらと空席がある。観客は、演劇好きな人々といった様子。ひとりで来場されている方が、多いです。

 日本バージョンが、目まぐるしく場や役柄をクルクルと変換させ、ダンボールや映像を駆使した多面的な表現アプローチが出来たのは、この、ロンドンバージョンがあったからであることが、よく理解出来た。




 リアル、なのである。役者の一挙手一投足には、全て根拠があるのである。どんな行動でも、その動きをとるにあたっての感情の起因があり、また、動きながらにだんだんと変化していく情感の起伏も、ピンセットで気持ちのひだをつまむがごとく、役者たちは繊細に感情を積み重ねて表現していく。




 日本バージョンが、野田芝居特有のスピード感と視覚的な面白さでグイグイと見せていけたのは、ロンドンバージョンでの、こうした登場人物たちの感情の根幹部分がベースにあったからこそ、いろいろな表現手段を付加することが出来たのであろう。また、演出家として、全く違うアプローチをした、野田秀樹の才能のひきだしの多さにも驚嘆した。




 タイトルにもなっている「THE BEE」=「蜂」の扱い方の相違が、両作を捉える上での一番のポイントであろうか。ロンドンバージョンは、蜂の具体的な姿は全く登場しない。ブーンという音は役者が声で奏でるが、飛んでいるであろう蜂を目で追い、テーブルの上にコップで覆い被せてしまう。日本バージョンでは、幾重にも重なった巨大な蜂のシルエットが背景に映し出され、主人公の身体を内側から蝕んでいくような抽象的なアプローチであった。




 また、蜂を仕留めた後、ハチャトリアンの「剣の舞」に日本語の歌詞を被せた曲が大音量で流れるのだが、この音にのせて踊る日英の役者の演技方法も全く表現を異にする。




 キャサリン・ハンターが演じるのは、勝利の雄たけびだ。こぶしを挙げ、目をカッと見開き観客を鼓舞するように、ゆるやかだがドッシリとした風格で舞い踊る。また、野田秀樹は全く違うアプローチにて、四肢を振り回し飛び跳ねながら、狂ったように乱舞していくのだ。ロンドンバージョンでは蜂は異物の象徴であり、だからそれを封印することで迷いなき行動がとれるのであろうか。日本バージョンはアタマの中に住み着いたやはり異物なのであるが、もはや自分の意思ですら確認出来ないような混沌とした状態で、判断や解決する冷静さを大きく欠いている。




 異物が、「外」にあるか、「内」にあるかという解釈の違い。全く、逆のテーゼを野田秀樹は提出していたのだ。同じ作品での、真逆のコンセプト。両作を観ることで、初めてその罠に気付かせるという仕掛け。ライブならではの醍醐味である。




 ラスト。日本バージョンは、まるでこれまで起こっていたことは、既に通り過ぎた伝説であったかのように、何もかもが全てはゴミとなりただ堆く積まれているだけであった。ロンドンバージョンは、リアルに皆、死を迎え、息絶える。リアルの積み重ねと、妄想と感情が境界なく融合した状態。他者は「外」にいるか、「内」にいるか。同じ台本から、全く異なる解釈を導き出した野田秀樹の才能の感服である。また、視覚的表現のめくるめく多彩な手法にも脱帽である。ギュっと才能が詰め込まれた珠玉の作品群であった。