劇評 75 

永遠に解決しないであろう、人間の本能の不可解さを突き付けられる、恐怖!

「THE BEE」 日本バージョン




2007年6月23日(土)晴れ
シアタートラム 午後4時開演

原作:筒井康隆
脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
演出:野田秀樹
出演:野田秀樹、秋山菜津子、近藤良平、浅野和之
美術:堀尾幸男
照明:小川幾雄
選曲・効果:高都幸男
場 : 会場に入ると、入口の向こう側正面がステージになっている。ステージに向けて段々の客席が設えてある。ステージ上には、撮影スタジオのホリゾントのような形状のボール紙が、舞台奥の上から床にかけて下ろされている。
人 : 満席。立ち見の方もたくさん。客層は30〜40代がメインかな。男女比は同じくらい。ひとり客の率が多い気がする。

 1時間10分という上演時間の中にグッと濃縮されて表現されていたのは、人間の在り方、そのものであった。それは、世界そのもの、とも言い替えることが出来るかもしれない。人が生まれ生きているというこの現実、そのこと自体に疑問符を突き付けられたような衝撃に、少しずつ自分の細胞が洗脳されるがごとく、この劇世界に侵食されていってしまうようなのだ。




 日常生活の中で自然に身につけていると思っている理性や知性というものが、何らかの理由で壊れてしまった時、その地点からの行動には、起因となる理由など全く存在しないのだという底なし沼のような恐ろしい現実を見事に暴いてみせた。筒井康隆の原作を得て野田秀樹が描くのは、日常から照射された非日常の光景である。彼岸で展開されている戦争は、決してひとごとではなく地続きの延長線上にあるのだが、それに気付かない振りをして過ごしている意識の矛盾を鋭く突きまくる。




 ある日帰宅した父は、自宅が犯罪者に占拠され、妻と息子が人質になっている事実を突き付けられる。煽るマスコミ。そして、警察に促され、犯罪者を説得するために向かった場所は、その犯罪者の妻と子どものいるアパート。そこで、父は、突然豹変する! 同行した警察官を殴り外に放り出し、その犯罪者の家を占拠してしまうのだ。




 このバイオレンスな行動は、敢えてどの戦争に置き換えて説明する必要もないであろう。人間、誰もの中に眠っているであろう、人智を超え善悪を問えない地平にある意識、ある種の本能のようなものが、全ての要因なのだ。しかし、それは、はっきりと確認出来る種類のものではない。暴力の衝動は、不可解なのだ。防衛本能とも取れるが、それは知性がする解釈である。理由のひとつでしか有り得ない。




 そんな不可解を現実世界に持ち込んだ時、一体そこでは何が起こったのか? これは、実験、であるのかもしれない。誰に対しての、実験か? もちろん、それは、この劇を観に来た観客たちに対してである。観客が、この光景を観てどう感じるのか。いろんな「ロープ」から、本能に近い幾本かをセレクトし、何故それを選んだのかという理由を、一切、語らないことに対して、どう思うのか。私が感じた感情は、恐怖、であった。




 占拠した家では、監禁、妻へのレイプ、子どもの指を日ごと切り落とし相手の犯罪者に送りつけていくという陰惨な毎日が繰り広げられるが、このねじれた現実が、だんだんと、日常化していくこと、その、恐ろしさ。その光景を、ポップに、身体を駆使して語っていく、野田演出の面白さ。




 時折、蜂が飛び交い、アタマを悩ませる。まるで、アタマの中の、決して結び付くことのない回路同士が、蜂が舞うことで引き寄せ合い、今までにない能力を誕生させてしまったかのような違和感に、感情が引きずられていく。




 ことの顛末は意外とあっけない。全ては無に回帰し、何事もなかったかのように、ヒトもモノも、そして、そこで起こっていたであろう事実も、ただ、蜂がたかるゴミと化して堆く積まれていくだけなのだ。




 永遠に解決しないメビウスの輪の中に閉じ込められているような自分を感じ、またもや戦慄を覚えてしまうのであった。