劇評64 

時代を投射しユーモア溢れる快作。

「スウィーニー・トッド」






2007年1月6日(土)雨
日生劇場 午後5時30分開演

作詞・作曲:スティーブン・ソンハイム
脚本:ヒュー・ホィラー 
演出・振付:宮本亜門
出演:市村正親、大竹しのぶ、キムラ緑子、
ソニン、城田優、立川三貴、斉藤暁、武田真治
場 : 開場時に既に幕は開いており、金属類のタンクや配管などが廻らされた工場跡地の廃墟のような美術が設えてある。舞台が始まると、そのタンクらしきものはシチュエーションに応じて様々な使われ方をする。可動式の階段も縦横無尽に活躍する。
人 : 満席。まんべんなく色々な層の方々が来ている。たまにいる、熱狂的なミュージカルファンの姿は見かけない。彼女たちの興味とこの作品は別モノなのであろうか。村井国夫氏が来場されていた。

 スウィーニー・トッドという男の一代記であるが、彼だけが決して突出することはなく、目まぐるしく展開されるストーリーに絡む様々な人々によって、見事なアンサンブルが成立していた。まさに、息つく暇のないスピーディーさで、グイグイと観客を圧倒していく。しかも、出演者ひとりひとりに隙がないため、舞台がとても濃密な空気で充満しているのだ。ひとえに、ソンドハイムの実にクオリティの高い基盤があることに全く疑う余地はないのだが、この2007年の日本における社会情勢などとも見事に合致した骨太の作品に仕上げられた大きな要因は、市村正親や大竹しのぶを始めとする俳優陣と演出の宮本亜門のセンスと技術に大きく因っていることに相違はない。




 近年、様々なアーティストが、暴力の連鎖を問う作品を発表しているが、本作の宮本演出のポイントもそこにあるのではないか。怨みや復讐という断ち切ることの出来ない負の感情がもたらすものは、悲劇でしかないということ。そして、そんな行動を引き起こす人々の心情にメスをあて、切り裂いてみせることによって、それぞれの哀しみの元凶を露わに開示していく。そこで、ハッキリと分かるのは、既に動き出した感情を止めるのは非常に困難であるということ。そういう負の感情を表出させないためには、その感情を押さえ込み続けていくか、あるいは第三者の力によって断ち切られるか、そのどちらかしか方法がないのかもしれない。




 こんな暗い復讐劇をあっけらかんとしたエンタテイメントとしてしまう発想がそもそも凄いが、それを演じる役者の上手さが、作品の真髄を浮き彫りにし演出の要望を掬い出すのに見事に応えていると思う。




 もはや、市村正親に超えられない山はなさそうだが、今作ではタイトルロールを演じ作品の機軸となりながらも、あくまでも全体のアンサンブルの一員であるという存在の在り方に、またもや唸ってしまう。大竹しのぶのミュージカルは如何にと臨んだが、見事な演じっ振り。スウィーニー・トッドが好きであるという行動規範がはっきりしているので、何か陰惨なことに手出しをしている感じがなく、愛する人との共同作業に嬉々として可愛さすら溢れている。両者共、内面の感情の放出がありありと分かり、故に歌と踊りのテクニックには長けているミュージカル俳優の感情を置き去りにしたような空虚さなどはあるはずもなく、この芯のふたりのパワーの奔流に周りの役者もいい意味で巻き込まれていて一丸となってストーリーを牽引していった。




 ソニンがいい。清楚でありながら力強く、オペラの詠唱のような伸びやかな歌声で観客を魅了する。エンディングの全員での合唱時も、睨み付けるような怨念の表情を作り最後の最後まで工夫を凝らしていた。また、キムラ緑子の歌が聞き難かったことと、武田真治の声量が他の役者に比べ格段に弱かったことなどは、回を重ねる毎にこれから改善されていくのであろうか。




 橋本邦彦のシェイクスピア張りの洒落合戦の翻訳も楽しく、窪ませた目にアクセントをおくモダンな馮啓孝のメイクも芝居ではあまり見ない試みで刺激的だ。




 残忍さをせせら笑うユーモアに満ち溢れ、また、人間の本性の屈強さを浮き彫りにもした、まさしく、今、この現在を、見事に投射させ再生された、痛快な快作である。