劇評62 

人の中に巣食う狂気を、普遍的なものとして描いた逸品。

「タンゴ・冬の終わりに」






2006年11月4日(土)曇り
シアターコクーン 午後7時開演

作 :清水邦夫
演出:蜷川幸雄
出演:堤真一、常盤貴子、秋山菜津子、
   毬谷友子、高橋洋、月川悠貴、新橋耐子、
   沢竜二、段田安則
場 : 会場に入ると舞台前には黒い幕が下ろされている。初演・再演と観てはいるが、あの、驚きのオープニングがやはり待ち受けているのだろうかという、期待感が高まっていく。
人 : 満席。立ち見も出ている。会場には、清水邦夫さんのお姿も。まんべんなく、いろいろな年齢層の方が来ている。男女比も同じくらいだ。

 カノンのメロディーにのって幕が上がると、舞台上は映画館の客席になっている。観客席側にスクリーンがあると見立て、80人強の観客が、そのスクリーンに映し出されているであろう映画のシーンを見て、騒ぎ、応援し、泣き叫んでいる。映写されているであろう映画は「イージー・ライダー」。ラスト、ライダーがライフルで撃たれるシーンがくると、その一瞬の衝撃を受け止め、それぞれがそれぞれの感情の爆発を封じ込めるがごとく、全員の動きが一斉にスローモーションとなる。圧巻である。




 これだけの人数の群集が出てくるのは、蜷川演出としても久し振りではないか。登場するひとりひとりの生活の背景が浮かび上がり、それぞれの感情が手に取るように感じられてくる。このナマナマしい感情の放出は、この後展開されていく物語の序章を占めることで、まるで祭りが終わってしまったかのような、何とも言えない空虚感を、逆に炙り出すことに繋がっていくのだ。




 突如引退し弟が経営する故郷の映画館に舞い戻ってきた中年俳優とその妻。堤真一演じるその中年俳優・清村盛は、ひとりの人間が現実世界から厭世し妄想の世界へだんだんと閉じこもっていく様を、ことさら特別な出来事としてではなく、誰にでも起こり得る事実として捉え、普遍的な人物像を造形していた。今にも壊れそうな人格の均衡を保つその危うさが、繊細にディテールを積み重ねることで、物語の進行とシンクロしていくのだ。狂気に溺れる強烈なパワーに魅入られていく平幹二朗のアプローチとは、全く方法を異にしている。ゆえに、役者陣は若返ったとはいえ、人生折り返し地点を越え、これから死に向かって終焉を迎えていくという寂寥感が、終始漂うのだ。これは、演出家・蜷川幸雄が重ねてきた年齢とも、シンクロするのではなかろうか。こんなにも、寂しい作品だったのかと、改めて気付いてしまった。




 妻役の、秋山菜津子は、凛として清々しいが、どうしてもあがなえない運命の流れを止めるために仕組んだ「ある罠」も、愛ゆえに企てたわけであり、そのヒリヒリとした痛々しさが、ひとりの女の弱さを露呈させ、人の哀れを浮き彫りにしていく。




 妻の罠にはまり、清村を追いかけて来る女優・水尾を演じる常盤貴子はとても美しいが、その人物像に表面的なものしか感じることが出来なかった。他の役者陣が、台詞の言葉ひとつひとつから、繊細にその時の感情を紐解きスパークさせているためか、余計に役柄に対する洞察力の浅さが目立ってしまうのだ。感情が重層的ではなく、一枚岩の一本勝負なのだ。ある意味潔いとも言えるが、これから日を経る毎に舞台という場にも慣れ、変化していくのであろうか? 夫役の段田安則は、深刻になりがちなベクトルを逆に牽引し、登場人物を大きく包むような温かさで、作品世界をふくよかに広げていた。




 物語は終焉に向かって流れていくが、台詞にある「雪」「桜」という単語を掬い取ったビックリな仕掛けが、最後に待ち受けていた。単純に、美しい、と感じた。タンゴの音色と相まって、人の中にある狂気と哀しみの感情が、一気に襲って来た。そして、オープニング同様、幻の観客で埋め尽くされた満員の映画館。笑い、泣き、怒る人々。人間って、何と哀れだが、力強いんだろう。




 平家物語の冒頭の言葉が浮かんで来る。「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらわす。おごれるものも久しからず、唯春の夜の夢のごとし。」清村が、最後まで、幻の世界で追い続けていた「孔雀」とは、一体何だったのであろうか?達観した理を、染み入るような愛を持って描いた、胸にずしりと残る逸品であった。