劇評61 

ギリシア悲劇の姿を呈した強烈な爆弾。

「オレステス」






2006年9月9日(土)晴れ
シアターコクーン 午後6時開演

演出:蜷川幸雄
作:エウリピデス
翻訳:山形治江
出演:藤原竜也、中嶋朋子、北村有起哉、
吉田鋼太郎、香寿たつき、寺泉憲、瑳川哲朗
場 : 場内に入ると高い壁に囲まれた丸い空間が広がっている。そこは、多分、部屋の中にも城門の外にもなるのだろう。正面の大きな扉には、手書きで大きく白いバッテンが書かれている。舞台は手前に傾斜しており、役者は体力を酷使しそうだ。
人 : 満席。チケット完売の公演だけあって立ち見の方も多い。観客の年代性別はバラバラ。
演出家の奥様とお嬢さんの姿をお見かけしました。

 戯曲の持つ凄まじいまでの「念」の力に圧倒された。それは、執念であり、怨念であり、通念であり、観念であり、感情というものを大きく凌駕したところにある強烈な想いは全くぶれることなく、ドンドンと自分の未来を切り開いていくと同時に、神のご神託を仰ぐことで、自己の意思に修正をかけていく。そのダイナミックさ。




 幕開きから舞台にグッと引き付けられていく。中嶋朋子演じるエレクトラが、現在の囚われの身である身柄をとうとうと嘆くのだが、突如、頭上から叩きつけられる雨の演出が、エレクトラの「念」を更に倍化することとなり、その迷いなき強烈な意思が、まさにほむらとなって立ち上がってくるようなのだ。また、黒ずくめの女性コロスたちの嘆きがエレクトラの内なる心の哀しみを乱反射させることにもなり、そういった様々な外的要因により、人物の心の内外を行き来する階段を上り下りするかのようなスピード感を獲得して、観客の気持ちを捉えて離さない。




 また、香寿たつき演じるヘレネと、エレクトラとの丁々発止が白眉である。ふたりが闘わせる弁舌のやりとりに聞き惚れてしまう。念の度合いの相違により、うまく噛み合わない車輪のような歯がゆさが、独特の可笑し味を生み出している。また、この超然としたヘレネの存在は、後々の布石ともなるのであるのだが。




 開演からしばらくの間、事の顛末が語られる中、ずっと布にくるまれていた藤原竜也演じるオレステスが、やっと布を剥いでその姿を現した。オレステスの今の精神状態が一目で分かる程、憔悴しきって、歩くのもままならない程やつれたその痛々しい姿が観客の胸を打つ。そんな状態ではあっても、自分は悪いことをしたのではないという思いは決してぶれることはない。但し、まだまだ、幻影を見たりして見えない何かに怯え揺れ動いている感情を繊細に掬い取ってみせる藤原竜也の才能は、更に進化しているように思えた。




 人や事、そして神に対して、ことごとく対峙していく外に向けての「強さ」が、よりパワーアップした気がするのだ。コミュニケーションのひとつひとつが、この話、全て、闘いである。慕う姉に対する恋慕も、憎き母に対する憎悪も、友人ピュラデスに対する友情も、どれも全て真っ向勝負、まさに、命懸けなのだ。しかも、そのテンションを維持しながら、その時々のオレステスの心情が溢れ出てくるのだ。




 吉田鋼太郎演じるメネラオスの浅薄な英雄像も見事である。少し襟足だけ長くした髪もご愛嬌に、助けを請うオレステスを見捨て、瑳川哲朗演じる祖父テュンダレオスのご機嫌を伺う様の浅ましさといったら! 北村有起哉の、楚々とした凛々しさも印象的である。どうしてもベクトルが熱演へと向かう姉弟の傍に居て冷静に物事を捉える様は、演技的にも巻き込まれないよう独自のスタンスを取ろうとする俳優心情の吐露のようでもあり興味深い。そして、コロスの市川夏江の声には、いつもながら、何か郷愁を掻き立てられるような母の愛が一杯に詰まっている。




 物語は神の啓示を受け終焉を迎えるが、その先に演出家が用意した結末は、2000年という時を経た彼方から現代へと落とされた爆弾のような閃光を放ち、安穏と過ごす私たちを思いっきりアジテーションしてくる。暴力の連鎖をテーマとして取り上げる作品をこのところ多く目にするが、ギリシア悲劇にそれを重ね合わせることで、人間の感情の進化は、テクノロジーがいくら進もうとも、実のところ、何も変わってはいないのだということが白日の元に曝け出されてしまった。このことは、恐怖、ですらある。唖然、である。