劇評58 

複雑な感情と行動が交差する混沌が、現代の世界を映し出す。

「ウィー・トーマス」






2006年7月1日(土)晴れ
PARCO劇場 午後7時開演

作:マーティン・マクドーナー
訳:目黒条 演出:長塚圭史
出演:高岡蒼甫、岡本綾、少路勇介、
   チョウソンハ、今奈良孝行、富岡晃一郎 /
   堀部圭亮、木村祐一
場 : 客席に入ると舞台となるアイルランドの片田舎の家の中のセットが設らえてある。かなり、使い込まれた感のあるリアルな生活感漂う美術である。下手側の細い砂利坂道や、背景の暗雲とした空模様など、茫漠たるアイルランドの空気が覆っているように感じられる。
人 : 満席。年齢層は20代30代が中心といった感じ。客席の雰囲気には、皆、この作品を観にきているのだというささやかな決意に近いものがあり、少し前のめりなミーハー的乗りは一切無い。

 人の血がたくさん流れる芝居である。登場人物の半分が殺されていく。しかし、何処かあっけらかんとしたユーモアが全編を包み込み、深刻の深みにはまることはない。作者マーティン・マクドーナーは、アイルランドという土地にしっかりと根付いた「闘い」の歴史をDNAに沁み込ませた、かつての戦士たちの末裔を例に取り、切っても決して切れることのない暴力の連鎖というものを、達観して高笑いしているかのような爽快さすら感じさせるのだ。




 血が流されたとしても、すぐに砂利道に吸い取られ、しばらくすると、まるで、何事も無かったかのように人々は日常生活を送っていくというような、生命力と言うか、死と生が隣り合うが日常と言うか、衝撃的な表現が続くのではあるが、登場人物が生活者であるが故に、エンタテイメントのアクションものの絵空事には成り得ない現実感が迫ってくる。




 この土壌が生んだ悲喜劇ゆえ、演出の長塚圭史は、緻密にアイルランドの茫漠たる荒涼感をこの戯曲から抽出しようとしている。死体を切り刻むという非常にリアルな表現を取りながらも、アイルランドを掬い取ろうとするスピリットは繊細に、人の心の奥底へと分け入るようなアプローチをそこかしこに忍ばせている。




 時折、ほんの微かに背景に流れる風の音。拷問の場面で逆さに吊るされた男の頭上で何故かゆっくりと明滅するライティング。ある舞台転換前、一瞬、部屋の背景の壁やガラスなどが強烈な真黄色に染められるシーン。転換時に大きく流れるアイルランド風音楽。この現実世界の彼方向うから、何か、が視線を投げかけているかのような俯瞰の視点を感じさせ、贖えない運命を積極的に受け入れ享受するスピリットが自然に溢れ出し、登場人物に反映されている。故に、何かに突き動かされているのだという衝動に、きちんと裏付けが生じてくるのだ。




 木村祐一が、作品全体のトーンを決定付ける飄々としたユーモアを醸し出し出色である。岡本綾の存在感は強烈だ。最後の残虐な行為も強い説得性を持ってサラリとやってのける。高岡蒼甫は、時に、感情が高まっていく台詞の間に息継ぎをしてしまうことで、うまく感情が台詞に乗らないことがあり、また、キレると恐ろしいという領域までは、感じることが出来なかった。チョウソンハの、ボケ振りは大仰に、キンキンな声のトーンも印象的で面白い味を出していたと思う。




 即物的で殺伐とした作品なのだが、長塚圭史は、そのドロドロな奥底から、「絆」みたいなものも炙り出している。勿論、愛猫「ウィー・トーマス」と高岡蒼甫演じるパドレイクの関係性が物語の発端なのではあるが、父との、女との、また幼馴染との「絆」が絡み合い、物語は展開していく。「絆」は切っても切れないのだ。暴力だって、それと一緒なんだ。いや、ほんのごく日常の中から、暴力は生まれてくるものなのだと、「暴力の連鎖」と「絆」を重ね合わせてみせる。




 最後のオチには笑うしかない。残酷と笑いが同居しながらも、「絆」に何処か心癒されるという、複雑な感情と行動が交差する混沌が、まさに、今、なのかもしれない。