劇評48 

外連味を排した演出が、傑作戯曲の本質を炙り出す。


「贋作 罪と罰」



2005年12月10日(土)曇り
シアターコクーン 午後7時開演

作・演出・出演:野田秀樹
美術:堀尾幸男
照明:小川幾雄
衣装:ひびのこづえ
出演:松たか子、古田新太、段田安則、宇梶剛士、
   美波、マギー、右近健一、小松和重、
   村岡希美、中村まこと、進藤健太郎
場 : シアターコクーンを改造。ステージは、通常の観客席と舞台上との間に設えられており、通常は舞台上の場所には観客席が作られている。ステージは観客に挟み込まれるような状態である。ちなみに私の席は、舞台上側の最前列中央であった。ラッキー!
人 : 満席。立見の方もビッシリ。また、結構1人で来ていらっしゃる方が多い。しかも男性観客比率が意外に多く、男女半々といったところか。ファン層の厚さを感じた。

 戯曲の言葉がグサグサとストレートに胸に突き刺さってくる。ドラマチックに場を盛り上げる音楽などは極力排され、役者たちがステージの上でそれぞれの人生を精一杯生きているのだといくことを、全て納得させてしまうような魔力を放ち、観客を捕らえて放さない。それは、ひとえに、レトリックに擦り寄ることなく物語を紡ぎ出した戯曲の素晴らしさによるところが大きいと思う。ドストエフスキーの強固なメッセージが根幹にあるからなのか、そこ此処へと時空が飛ぶこともなく、ひとつの終焉に向けて物語は展開していく。野田戯曲は10年の時を経ても全く色褪せることなく、その時々の世相を映し鏡のように照らし出し、なおかつ刺激的に輝いている。




 冒頭、松たか子演じる三条英は、高利貸しの老婆を殺してしまう。その逡巡する様々な思いと、混迷の幕末に設定した時代背景とが相まって、大きなパラダイムシフトのうねりの中に生きる人間たちそれぞれの本性を暴いていく。大きく動く時勢は、それを動かす体制側と、反対する派閥と、巻き込まれるしかない人々とが混然として、正義の行方は彼方遥かへと追いやられてしまう。新しい時代が来る夜明け前とは、こういう混乱を指すものなであろうか。




 価値観は個々それぞれがバラバラである。登場人物全ての価値基準はそっくり違っている。但し、すれ違ってはいても、利害関係はある。しかし、自己の正当化から関係性はほつれ、諍いが起こり、相手を受容することを忌避していく。結果、一番得をするのは誰かというと、権力を握った者なのである。秩序の混乱を味方につけ、大枚や名誉で人々を手なずけていくのだ。このことは、いつの世も変わりないのではないか。ふと、周りを見渡してみると、残念ではあるが、似たようなことが起こってはいないだろうか。




 しかし、物語は、勿論、そういう権力を賛美するものではない。何が正しく何が間違っているのかで悩み苦しむ市井の人々を憂い、その純粋な心根を掬い取って未来へとつなげていくのである。思う心、思い続ける力が、活力になっていくのだ。そして、そういうパワーが折り重なって生まれる「力」こそ、揺ぎ無い本物の「力」に成り得るのだと語りかけてくるようなのだ。




 松たか子が圧倒的な存在感で作品を牽引している。明晰に何事も迷い無く判断してはいるようではあるのだが、反面、全く裏腹に染み出すような不安感を忍ばせていて秀悦である。そして、何よりも、キラキラしたスターのオーラが目に眩しい。古田新太の堂々とした洒脱は作品に安心感を与えるが、松たか子と通じ合う心の心情にもうひとつ説得力に欠ける気がした。愛を通わせているよう見えないということなのだが…。段田安則の安定感は作品に重みを加えていた。全体的にアンサンブルとしての均衡が絶妙で、どの役者も個性的だが変に突出することがない。




 気泡シートを上手く活かした堀尾幸男の美術は、シンプルながらもクルクルと変わる場面のイマジネーションを掻き立てることに成功し、ひびのこづえの衣装はいつもながら独特の世界観を作り出すが、強固な戯曲の言葉と対峙する強烈さが、作品の完成度を更に高めている。




 野田秀樹は相変わらず創作現場の先頭を走っている。また、同時代に生きているゆえにライブを共有できる幸せ! 次のカードが、今から待ち遠しくてならない。