劇評40 

大竹しのぶ、万歳!

「メディア」 







2005年5月7日(土)晴れ
シアターコクーン 午後7時開演

演出:蜷川幸雄
出演:大竹しのぶ、生瀬勝久、吉田鋼太郎、
笠原浩夫、横田栄司、松下砂稚子、管野菜保之
場 : 開演まで舞台は黒幕で覆ってある。前列3列目までの客席にはビニールシートが置いてあり、係りの女性スタッフから、舞台上から水が跳ねてくるかもしれないと説明される。私は2列目の上手側の席。1列前の4人家族が少し動揺しているようだ。
人 : 満席。尾上菊之助や白石加代子の姿を見掛けた。会場は熱気に溢れ期待感が高まってきた。

 幕が開く。舞台には水が敷かれ浅い湿地のような感じ。巨大な蓮の花と葉が水辺からにょきにょきと沢山生えている。「グリークス」に続き、ギリシア悲劇で、再び、蓮、である。
舞台奥は屋敷であり、2階部分の入口に通じる階段が水際より設えられている。舞台前面中央にはほんの小さな陸地があるが、いわばお立ち台、である。ここで役者が謳い上げる訳だ。




 松下砂稚子が、前面の陸地に座ってコトの顛末を語り始める。女性のコロスも登場し、幕は切って落とされた。大竹しのぶが2階の屋敷の入口より登場。金髪に染めた物凄く短く刈り込まれた頭髪は、まるで、アウシュビッツのユダヤ人を彷彿とさせるような悲痛さを訴えてくる。まずその強烈なインパクトにノックアウトさせられた。




 大竹しのぶの独壇場である。感情をむき出しにしたと思えば、策を弄する思慮分別を冷静に保ち、また、今置かれた現状を思い出すと怒りが湧いてくるものの、夫への復讐の段取りのコマをひとつずつ進めていく。相反するとも思える揺れ幅の大きな感情の乱れを見事にひとりの人物の中に結実させ、クルクルと目まぐるしく変化するメディアの心そのものを、発する言葉に魂を込め、嘆き謳い上げる。




 表情の豊かさも驚嘆に値する。ショックな言葉を投げつけられ驚いた次の瞬間、そのビックリさ加減は次第にスーっと引いていき、ただ、目だけがその理不尽さを残しつつも、言葉では表面的に媚を売り始めるといった具合だ。しかも、強い。感情が千路に乱れる女を演じても、一番前面に出てくる感情は、強烈な女のパワー。決してひるむことなんかある訳がないと100%の確信が持てるほどの迷いのない強さ。





 大竹しのぶを得て、様式の「王女メディア」は過去のものとなり、いつの時代でもどの世界でも通じる「女」という生き者の、生き様そのものを体当たりで体現してしまった! 当たり前だが、これは女にしか演じることは出来ない。しかも、優れた女と書く本来の意味での女優、にしか出来ない芸当である。まさに、驚異、の瞬間の連続であった。




 対抗するは、生瀬勝久。目がギロリと大きく肩まで掛かった縮れた髪の毛のエキゾチックな風貌は、ギリシアの壁画にあるような「男」そのものである。朗々とした台詞回しに モテル男の色香を漂わせながら最後までメディアに強く応戦し拮抗するが、結局は女の強さにひれ伏してしまう脆さを演じて小気味良い。吉田鋼太郎は、クレオン王の弱い部分を滑稽に演じ観客を魅き付けながらも、大竹しのぶとの丁々発止のやり取りなどは、もう、台詞が音楽のような心地良さを発してきて陶酔してしまう。この2人の場面は、役者の力によって、ひとつのクライマックスを形成することとなった。また、笠原浩夫が能天気な人の良さで場面に軽さと救いを作り出し、管野菜保之や松下砂稚子がしっかり脇を固め、悲劇の人々を見守る視線にて、舞台の視点を拡げていた。




 竜に乗ってメディアが辿り着いた先は一体何処なのであろう。もしかしたら、すぐ傍にいたりして、などと思えるこの感覚は、この舞台が本当にリアルな感情によって紡がれていたからに他ならない。優秀な役者というものは、時空や国境を軽がると凌駕してしまうものなのですね。