劇評358

美しく且つ刺激的に装いながらも、現代社会の欺瞞を切っ先鋭く抉る衝撃作。

 
 
「華氏451度」

2018年10月13日(土)曇り
神奈川芸術劇場 ホール 18時開演

原作:レイ・ブラッドベリ
上演台本:長塚圭史
演出:白井晃

出演:吉沢悠、美波、堀部圭亮、
粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、吹越満

場 : 千秋楽の1日前です。劇場内に入ると、既に設えられている美術が拝めます。舞台の3方を書架が囲むという設定。グレーを基調としたカラーの本の背表紙が並ぶ光景は圧巻で、また、美しくもあります。

人 : 8割位の入りでしょうか。30〜40歳代が中心かな、比較的若い客層が集います。本作のどの点に関心を持たれて来場したのかな。興味ほ方向性はそれぞれな感じがします。

 「華氏451度」と言えば、フランソワ・トリュフォー監督が1966年発表した映画作品が強烈に印象に残っている。近未来の情報規制社会を憂うるその内容は、ジョージ・オーウェルの「1984」にも通じる、恐怖政治に対する警鐘を鳴らしていた。

 レイ・ブラッドベリは本作を1953年に執筆していた。ジョージ・オーウェルの「1984」が書かれたのが1949年。両作が発表されてから60年を優に超える今、不穏な世界情勢はその質を変えながらも、現在に至るまで断ち切れることなく連綿と続いているのではないかということを、本作と対峙することで再認識することになった。

 何故世界は、持つ者が、持たざる者を支配しようとする構図を変えることを許さないのであろうか。その際、情報操作によるある種の洗脳のさせ方が支配層にとっては肝となるのかもしれない。その事実に気付き、足掻き始める主人公に観るものは共鳴していくことになる。「華氏451度」では、ガイ・モンタークがその役割を担っていくことになる。

 ガイ・モンタークは、読むことも所蔵していることも禁止されている“本”が発見されると、その本を焼却するファイヤーマンという職業に就いている。民衆に考えるという契機を与えるようなことをしてはならないという世界が描かれていく。しかし、彼はその行為に対して疑問を抱いていくことになる。焼いている“本”を読んでみたくなるのだ。ガイ・モンタークがそんな思いの丈をぶちまける元大学教授が放つ言葉が胸に突き刺さる。「大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ」と。

 現在、社会は情報に溢れ返っていると思うが、その受け取り口がPCやスマホからである我々を、同作はアジテーションしてくるかに思えてくる。何の疑いを持たないまま情報を受け入れ、全能感に浸っている自分に疑問を投げ付けられているように思えるのだ。演出の白井晃、上演台本の長塚圭史の思いが作品に照射されているのだと感じ入る。

 物語の中心に立つ苦悩するファイヤーマンを吉沢悠が好演する。逡巡する思いを繊細に表現し、今を生きる観客との媒介となっている。その妻であり猟犬や鹿まで何役も演じる美波は、ガイ・モンタークを翻弄する存在として、作品にくっきりと足跡を残していく。ファイヤーマンの隊長と隠遁者である知識人双方の役割を担う吹越満の存在は、作品に刺激と安定感を付与し、作品をキリリと締めていく。堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、皆それぞれにくっきりと印象に残る個性を作品に刻印していく。

 白井晃演出は、俳優陣のポテンシャルを最大限に引き出すことに成功している。また、美術や照明、衣装、映像など、可視化されるものに対する氏の美学も特筆すべきだ。特に、建築家である木津潤平が現出させる陳列された蔵書に囲まれた空間は、まるで、モダンアートの様な強烈なインパクトを湛えクールである。

 美しく且つ刺激的に装いながらも、現代社会の欺瞞を切っ先鋭く抉る衝撃作であった。観劇後、じっくりと語り合いたい作品であると思う。是非、再演を希求したい1作である。


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