劇評34 

三谷幸喜流「人生賛歌」の秀作。

「なにわバタフライ」





2005年1月20日(木)晴れ
PARCO劇場 午後7時開演

作・演出:三谷幸喜
出演:戸田恵子
生演奏:小竹満里、山下由紀子
場 : 人気の演目が並ぶPARCO劇場の中でも、1ヶ月半のロングラン、一人芝居、即日完売という超人気プログラム。舞台は主人公の女優の楽屋という設定だが、女優が語る物語に合わせてその場がその時の状況へと逐次変化する。
人 : 満員御礼。立ち見は入れていなかった。ただ、私の席の隣2席が空いていた。何があったのか分からないがもったいないことだ。

 2時間15分休憩無しのノンストップ。全く飽きることがなかった。何かもの凄い仕掛けがある訳ではないのだが、終始舞台から目を離すことが出来ない。全くもって戸田恵子演じる女優が魅力的であるからとしか言いようがない。キツイし面白いし可愛い。出演者がひとりという極めてシンプルな形体が、逆に観客の胸にストレートに響いてくる。というか、その彼女が体験してきたことを同時に観客も体験しているかのような共有感が沸々と生まれてくるのだ。女優としての力量の凄さを、凄いという方法ではなくさりげなく表現するその技量の巧みさに脱帽である。



 女一代記を叙事詩風に謳い上げる訳ではない。日常の細かな人との触れ合いの中に生じる可笑しさや哀しみの積み重ねの中で、人は日々生きているのだということが、その女優の姿を通してひしひしと伝わってくるため、心が共鳴し元気付けられるのだ。どんなことが起こっても前向きに生きていく主人公の姿がすがすがしい。



 女優はそこに居るであろう誰かと会話をしながら話を紡いでいく。その相手方は照明で表現されたりする。但し女優は、その状況自体を細かに語って聞かせるということはない。あくまでも、相手方との会話により話しは展開していくのだ。そこで、観客は想像力を求められてくる。小道具や衣装もしかりである。ぬいぐるみが毛皮のストールになり、旅館の浴衣の帯はガムテープ、可動式ミラーを斜めに倒しそこに毛布を掛けると病院のベッドになるといった手合いである。所詮舞台とは虚構であり、表現方法を自由に広げていくことが通じる世界である。装置の細部を緻密に再現したとしても、作りものであることに変わりはないのだ。表現と何か、ということにも思いを馳せてしまう。



 独自の視点を持つ作品である。作・演出の三谷幸喜が女優を見つめる視点は優しく厳しい。神の目でもなければ、側近の語り部でもない。常に一瞬一瞬を精一杯生きてきた女優と生活を共にしてきた男たちの姿を女優に照射することで、常に女優が生き生きと映えてくるのだ。常に市井の人々の視線で物事を捕らえる三谷幸喜に視点は、観客の日常的な視点とずれることなく、違和感なく染み入ってくる。ましてや、会話の当意即妙は絶妙である。



 人生というものをこんなにも楽しく軽やかに、しかも深く描いた作品に出会えたことが幸福である。過去を振り返るように、そこに居ない男たちと会話をする後半のシーンを見て、「死」というものを、何故かとてもリアルに感じてしまった。大仰ではなく日常に近いところに位置する「死」。怖いものではなく迎えるものである「死」。人は彼岸に向けて日々生きているのだということをあらためて教えられたような気がする。



 この作品は、三谷幸喜のまさに「人生賛歌」であると思う。心にポッカリと浮かんだまま、この先しばらくは離れないのではないのかな、とも思ってしまう。