劇評342 

大竹しのぶのブランチは、瓦解する女の生き様を普遍化して創造し絶品。

 
 
「欲望という名の電車」

2017年12月9日(土) 晴れ
シアターコクーン 18時30分開演

作:テネシー・ウィリアムズ
翻訳:小田島恒志
演出:フィリップ・ブーリン
美術:マックス・ジョーンズ

出演:大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、
藤岡正明、少路勇介、粟野史浩、
真那胡敬二、西尾まり、他

場 : 劇場内に入ると、本作の舞台となるであろう建物の外観が設えられています。物語がスタートすると、その外観はリフトアップされ、その向こうにキッチンとベッドルームが現れ、しずしずと舞台前面にスライドしてきます。

人 : 満席です。観客の年齢層はやや高めな感じでしょうか。観劇慣れした風の方多しです。男女比でいうと女性がやや多いですね。

 大竹しのぶのブランチを観るのは、約15年振りになるであろうか。当時の演出は蜷川幸雄で、作品自体がかなりパッショネイトなパワーを放熱していたと記憶している。本作の演出は、2年前、同作と同じくテネシー・ウィリアムズ作の「地獄のオルフェイス」で大竹しのぶとタグを組んだフィリップ・ブーリン。年齢を経て円熟の安定感を示す大竹しのぶが、一体どのようなブランチを魅せてくれるのか、観る前より、大いに期待感が高まっていく。

 精神のバランスを欠き壊れかかった女が、精一杯に虚勢を張る痛々しい姿を、大竹しのぶが見事に体現する。高貴なレディを装い登場する序盤から、不穏な空気感を徐々に作品に滲ませていく。

 ブランチの妹ステラを鈴木杏が演じていく。思えば大竹しのぶとは、2003年の「奇跡の人」での初舞台以来の共演となるはずだ。様々な舞台出演経験を経て、かつての先生とインティメイトな関係性をガッツリと構築していく様が、何ともワクワクする。

 スタンリーは北村一輝が担い、男が持つマッチョな性質をくっきりと刻印していく。このスタンリーの、男とはかくあるべきという言動は、今となってみると少々懐かしさすら感じてしまう。執筆時より約70年の時を経て、人間の在り方が、大きく変化を遂げたことを実感することにもなる。

 ミッチを演じるのは、藤岡正明。ミッチ役は、朴訥とした地味なイメージがあったのだが、長身のイケメンである藤岡正明というキャスティングは新鮮な印象がある。ルックスに引けを取らないミッチの存在は、ブランチがしな垂れかかろうとする思いに説得力を持たせていく。

 1幕が終わり、2幕が始まるまでの幕間には、舞台の壁面に蛾が羽ばたく映像が投影され、羽音を響かせていく。本作の執筆課程におけるタイトルが「蛾」であったということを、フィリップ・ブーリンは反映させたのであろうか。いみじくも、1988年に舞台を日本に翻案した「欲望という名の市電」で、演出の蜷川幸雄が作品自体を蛾の標本箱に見立てていたことが彷彿とさせられる。

 ブランチの過去が徐々に暴かれ、段々と物語は錯乱を極めていくのだが、ブランチが囚われている妄執が、メキシコの“死者の祭り”のような様相とも、ポランスキーの「反撥」の世界とも呼応しているかに見えてくる。精神の混乱が可視化されていく。

 ニューオーリンズの日常世界と、ブランチの精神世界とが、しかと対峙していく。大竹しのぶが現実世界全てを敵に回しながらも、それを一人で確実に受け止めることが出来るのは、何とも凄まじい存在感だとしか言いようがない。

 精神病院からの迎えが来る段になると、観客は、何者にも寄ることなく、ブランチと市井の人々、その双方の気持ちが汲んで取れる様になっている。ブランチを、決して異形の人と捉えることのない状態になっているのだ。これは、精神の混乱を可視化し提示した演出に拠るところが大きいと感じ入る。

 蛾は標本箱から飛び出し、観客の心に舞い降りた。大竹しのぶのブランチは、瓦解する女の生き様を普遍化させ創造し絶品である。そのブランチにリアルさを付与し盛り立てた、熟練の俳優陣や演出家などの底力もヒシと感じさせる逸品に仕上がった。


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