劇評332 

観る者の観念を否応なしに攪拌する刺激的な逸品。

 
 
「プレイヤー」

2017年8月5日(日) 晴れ
シアターコクーン 19時開演

作:前川知大 演出:長塚圭史

出演:藤原竜也、仲村トオル、
成海璃子、シルビア・グラブ、
峯村リエ、高橋努、安井順平、
村川絵梨、長井短、大鶴佐助、
本折最強さとし、櫻井章喜、
木場勝己、真飛聖

場 : 劇場内に入ると緞帳は上がっており、ステージが見えています。劇場の稽古場という設定なようです。パイプ椅子が其処此処に配されているのですが、何だか綺麗だなと感じてしまいます。

人 : 満席です。2階席、3階席まで、立ち見のお客さんが入っています。客層は、比較的、女性比率が高い感じですが、年齢層は様々ですね。皆さん、演劇を観慣れた風な方が多いです。

 前川知大と長塚圭史が初めてタグを組んで、一体、どのような作品が生まれるのか。才能と才能とのぶつかり合いを、しかと見届けたいという思いで劇場へと馳せ参じた。登場人物も、実力派俳優が集結した。果たして、どのような世界が現出するのかと、目を凝らし舞台を注視することになる。

 物語は、地方の劇場がプロデュースする演劇を創り上げていく稽古場が舞台となる。演劇を創る過程を演劇で見せるという入子細工の構成が面白い。演劇好きの観客のハートを、グッと掴む設定に思わず前のめりになっていく。

 死者の言葉が生きている人間を通して再生されるという物語を、俳優というプレイヤーが演じていくのだが、そこには、プレイ=“祈る”という意味合いも抱合されているのだということが、次第に分かってくる。演じる、そして、祈る。スピリッチュアルな領域に、物語は踏み込んでいくことになる。

 演劇という虚構に、此岸と彼岸とがクロスオーバーすることで立ち上がる独特な世界は、前川知大の真骨頂だ。その物語設定を、長塚圭史が観客へと、確実にブリッジしていく。物語の奇異性に引っ張られ過ぎることなく、居並ぶ猛者たちの魅力を全開に引き出す手腕に目を見張る。

 俳優陣が虚実の被膜を超越しフリーパスで行き来する光景が、脳内をヒリヒリと刺激する。観客を安穏と客席に座らせてはおかない発破を、幽玄的なニュアンスを含ませながら発していくオリジナリティある表現が新鮮だ。

 稽古場が舞台という地味な設定であるが、パイプ椅子を多用したシーンを美しく現出させた乗峯雅寛の美術が大いに目を惹く。足し過ぎないシンプルさが、俳優陣の存在をくっきりと印象付けることになる。

 俳優陣は、様々な出自の面々が居並ぶが、誰が突出し過ぎることないアンサンブルが見事に機能する。舞台経験が多い俳優だからこそ可能とさせる、自分と自身とが演じる役柄との距離感の取り方が、実に絶妙なのだ。

 藤原竜也が醸し出す売れない俳優の燻り具合が面白い。仲村トオルが地方の俳優という役どころと劇中劇のセミナー主宰者の存在を融合させ、メインストリームから少し外れたアウトロー感を作品に沁み込ませていく。木場勝己が国民的俳優という役どころを貫禄を持って演じていく。演出家を担う真飛聖の立ち振る舞いは、イメージする演出家そのものであり、物語を脇から支える存在感を示していく。

 物語の歩を進めていくに従い、成海璃子の清廉さの中に潜む妄信や、シルビア・グラブが抱える葛藤、劇場プロデューサーを演じる峯村リエの過去と真意なども絡み合い、ステージで展開される物語と、その世界に生きる登場人物たちの現実世界との間にあるであろう壁が徐々に曖昧になっていく。

 創りものだと承知でその舞台を見つめる私たち観客の視点がそこに投射されることで出来上がる独特の作品世界が、本作の魅せどころだ。自らの身の置き所を模索しながら、劇世界と対峙することのスリリングさをたっぷりと味合わせてくれる。

 観る者の観念を否応なしに攪拌する刺激的な逸品に仕上がったと思う。分かりやすさに重きを置かない創り手たちの果敢な挑戦が何とも心地良い余韻を残すことになった。


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