劇評316 

明日への希望が見出せる幸福を、しかと感じられる心に残る逸品。

 
 
「シブヤから遠く離れて」

2016年12月10日(土) 晴れ
シアターコクーン 18時30分開演

作・演出:岩松了
照明:沢田祐二、美術:二村周作、
音響:藤田赤目、衣裳:伊賀大介、
ヘアメイク:勇見勝彦、擬闘:栗原直樹、
演出助手:大堀光威、舞台監督:幸光順平

出演:村上虹郎、小泉今日子 / 鈴木勝大、
南乃彩希、駒木根隆介、小林竜樹、
高橋映美子/ たかお鷹、岩松了、豊原功補、橋本じゅん

場 : 劇場内に入ると、既にセットが組まれているのが見えています。古い屋敷の庭に密集する黒いヒマワリのインパクト大なビジュアルが印象的だった初演時の美術とは少々異なり、生垣にはキレイな花が咲き誇っています。

人 : ほぼ満席。お客さんは、男女比は半々くらいかな。演劇で男性客比率が高いのはキョンキョンファンの男性客が多いからなのでしょうかね。年齢層は40歳〜50歳代が中心になっている感じです。

 同戯曲は、岩松了が蜷川幸雄のために書き下ろした作品で、2004年に初演されている。12年という時を経て、作者自身が演出も手掛けた本作は、蜷川演出とは異なる手触りの作品として生まれ変わった。

 蜷川演出は、物語の舞台となる朽ちかかった屋敷を黒いヒマワリが囲む美術が衝撃的であったが、岩松演出は、自らの手による戯曲を立体化することに忠実に、いつしか自然と物語は始動していくことになる。

 この屋敷に迷い込んだナオヤ、村上虹郎は、友人のケンイチ、鈴木勝大に会いに来たようだ。ケンイチはこの屋敷の住人であり、2階の1室に彼の部屋があるという。しかし、1階にはマリー、小泉今日子が棲みついている。彼女は何処からか追われてきており、空いているこの1室に隠遁しているのだということが、段々と分かってくる。マリーは、“春”を売る女らしい。

 そこはかとなく立ち上る曖昧模糊とした雰囲気を纏う登場人物たちの描かれ方が、妙にシコリとなって心に沈殿する。存在感はあるのだが、実在感が希薄なのだ。登場人物たちの逡巡する思いは其処此処で錯綜し、此岸と彼岸との境目を消滅させていく。その先行きの見えないサスペンスフルな緊迫感に、知らず知らずのうちに、だんだんと吸い寄せられていってしまう。

 物語の中心に聳立する小泉今日子と村上虹郎が発するオーラが舞台全体を覆っていく。この二人の在り様は、まるでリアルさを超越した幽玄世界の入口に立つセンチネルのような存在にも思えてくる。無意識に波動をチューニングしながら、意識下で闊歩する鬼っ子の様な二人は、何とも魅力的だ。

 小泉今日子は初演と同じ役で続投だが、このマリーという女の性をぶれずに掘り下げていくため、年月を経ても、かつての印象と違わぬことがない。蓮っ葉で、世の中を斜に構えて見やる女の格好良さを、小泉今日子は見事に体現する。粋、である。表層と深層を行き来する意識と、表の世界と裏の世界とを熟知する女の生き様が交錯し、融合する。“春”を売る女は、現実を凌駕した女神とさえ思えてくる。

 そんなこの世の生業に、矢を放つが如く疾走して駆け抜けるのが、村上虹郎だ。贖うことが出来ない倣いに、風穴を空ける役割を担っているかのようである。青年に未だなりきれていない純真無垢な少年であるからこそ、どんな世界でも容易に跋扈できる勢いに、かつて若かった青二才の自分の姿とをオーバーラップさせて見てしまう。ある種の、希望の様な存在として息づいている。

 マリーに横恋慕するアオヤギ、橋本じゅんはマリーの客だったようで、現実世界に生きる男の業を全開にさせ、ポジティブな生命力を発していく。その同僚であるフナキ、豊原功補は、村上虹郎と対のような存在である気がする。様々な人々が行き交う光景を目の当たりにしながら、誰とも、しかと関わり合うことがない、集団の中における不安定な存在。そんな大人と少年とが、物語に一片のおいて照射し合っている。

 アオヤギの父、たかお鷹が登場することで、物語に生温かな血液が注がれることになる。しかしその温もりは、父の敵意を懐柔しようと抱き込むマリーの思惑に絡め取られ、懇ろになっていく様の喜劇が可笑し味を付加する。アオヤギの妹とトシミ、南乃彩希は、ナオヤとの間にほのかな感情を交わし、当人の初々しさと相まって、爽やかなアクセントを刻印する。マリーのかつての住居の管理人フクダ、高橋映美子は、マリーの過去を炙り出し、時間軸に奥行きを持たせていく。コミカルな言動が、ホッと心慰められるのも嬉しい存在だ。

 岩松了は、蜷川幸雄とは異なるアプローチにて、自身の戯曲を、まさに“花開かせた”と思う。鮮やかに咲く“花”を目の当たりにすることで、明日への希望が見出せる幸福をしかと感じられる心に残る逸品に仕上がった。


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