劇評313 

李康白の寓話がリアルに腹落ちする、心にズシリと残る衝撃作。

 
 
「鱈々」

2016年10月29日(土) 晴れ
銀河劇場 18時開演

作:李康白 演出:栗山民也

出演:藤原竜也、山本裕典、中村ゆり、
木場勝己

場 : 劇場前には入場するための長い列が出来ています。パンフレットを購入しようとすると2種類あるとのこと。4P分が稽古場版と舞台版とで異なっているとのこと。なるほど、出演者のファンの方などは両方購入する方もいるのでしょうね。

人 : 満席。当日券販売もあるようです。女性客比率が高いですね。9割位を占めるでしょうか。女性はグループで、男性はお一人で来場されている感じです。

 藤原竜也、山本裕典、中村ゆり、木場勝己の4人芝居である。戯曲は、1993年に発表された韓国を代表する「アレゴリーの作家」と称される劇作家・李康白の手によるもの。演出は栗山民也。観る前から、濃密な劇空間が展開される予感に期待感が高まっていく。

 客入れの間、薄っすらとステージ上の空間が見えているのだが、はっきりと見えているのが非常口のあのサイン。煌々と光るサインに、観る前からその意味するところに思いを巡らせることになる。

 舞台は箱が堆く積まれた倉庫で、終始そこから場を移すことはない。その倉庫に住み込みで働く青年ジャーンとキームを、藤原竜也と山本裕典が演じる。2人のミッションは、届けられた箱を管理し、指定された箱を運び出すこと。ジャーン・藤原竜也は、粛々と仕事に取り組むことを真情とし、キーム・山本裕典は、この閉塞感ある職場から脱出したいと希求している。ジャーンはキームを弟の様に庇護し、そんなジャーンをキームは母の様だと鬱陶しがってもいる。

 倉庫というミクロコスモスに生きるというのは、一種のメタファーだ。そこでの仕事を完遂するという目的が、生きることの全てであると言っても過言ではない現状のジャーンとキーム。そんな空間に、外界の者が闖入してくる。

 ジャーンが倉庫を離れることはないが、キームは夜ごと街に繰り出していく。そこで知り合った女性が、酔い潰れたキームを倉庫に送り返しにやってくるのだ。その女性は、中村ゆり演じるミス・ダーリン。その呼び名からも分かるように、巷の男たちと添い寝する様な奔放な女性らしい。そして、木場勝己が演じる、倉庫に荷物を運ぶトラック運転手は、どうやらミス・ダーリンの父親らしい。娘を嫁がせると軽口を叩きながら、いかさま博打をキームに仕掛け、金銭を貪り取っていく。

 否応なく、外界が倉庫に侵入してくる。その外気にあがなうジャーン。そこに突破口を見出すキーム。

 ある事件が起こる。キームが意図的に運び出す荷物を間違えて発送してしまうのだ。慌てふためくジャーン。しかし、時間を経ても、何のクレームも起きることはない。それが、何故なのかは分からない。外の世界で何が行われているのかが分からない。

 この倉庫の外に広がる世界とは果たしてどのようなのなのであろうか。その大きさを図る術をジャーンとキームは知らない。多分、ミス・ダーリンも、トラック運転手も知らないに違いない。いや、この舞台を観る観客もこれは知り得ないことなのかもしれない。目の前にあるのは、世界から閉ざされた倉庫。私たちは担った役割の中だけに生き、世界のパーツでしかないのだという事実が突き付けられる。非常口のサインが空しく光る。

 藤原竜也が内省的でクレバーな青年を演じ、新境地を開拓したと思う。目の前だけを見て、仕事に邁進することに迷いを抱くことのない閉じた男に命を吹き込み哀切を滲み出す。これまで台詞を謳い上げる役どころが多かったかにも思えるが、それとは全く異なるアプローチにて、市井の、一介の人間を見事に造形した。

 山本裕典は、やんちゃな青年の中に堆く積もった積年の鬱屈を明確に描き、藤原竜也演じるジャーンとのベクトルの差異をクッキリと対比する存在として心に灼き付いた。ジャーンとキームとの明暗の対峙が、緊張感を伴う空気感を作品に付与していく。

 中村ゆりの、抑制することのない生々しい女の蓮っ葉な存在は強烈だ。キームを取り込み、ジャーンにも迫る節操のない生き様に、決して嫌味を感じさせず清々しさえ漂う気風の良い女っぷりで男たちを翻弄する。木場勝己は、ミス・ダーリンの本当の父なのであろうかという曖昧さも含みながら、年長者の貫禄と程良い愛嬌で、回りの者に有無を言わさぬ迫力を放っていく。

 李康白の寓話がリアルに腹落ちする、心にズシリと残る衝撃作である。私たちは、ここで描かれた倉庫の様な世界から、果たして脱出することが出来るのであろうか。ズシリと心に重しを置かれたかの様な、なかなか拭うことの出来ないリアルさを前に、ただただその現実を享受するしかない自分に愕然とするしかなかった。


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