劇評30 

グローバリズムの行方を憂うる緊密な心理劇。

「ディファイルド」


2004年11月14日(日)晴れ
シアターコクーン 14時開演

作:リー・カルチェイム
演出:鈴木勝秀
出演:大沢たかお 長塚京三
場 : 舞台となる図書館内部の真っ白な壁が舞台上に立ちはだかる。
壁には本を模したデザインが施される。上手側には外部との接点となるドア。
舞台ほぼ中央の受付カウンターなのであろう木の机が。
その上にはI-MACとグリーンのデスクスタンド。
人 : 満席。大沢たかおファンであろう女性観客がほとんどを占めている印象。
しかし、熱狂的な感じはあまりなく、概して大人しい印象。年齢層が30代アベレージと
アイドル系などよりやや高めなこともあるのかも。

 戯曲の世界にすっかり引き込まれ、じっくりと作品を堪能出来る上質の出来である。



 暗転になると、舞台のそこかしこに埋め込まれていた小さな赤い電球が点滅し始め、観る者の意識下の不安を掻き立てさせることとなる。舞台の真っ白い高い壁に仕込まれた電球は、ステージが展開されている間もずっとその明滅を繰り返す。閉ざされた空間の閉塞感がより高まってくる。


 まず、何より台本が秀逸である。ありそうでなさそうな設定。図書館の目録カードのオンライン化に反対するために図書館に立てこもる青年と、その彼を説得しようとする刑事との攻防。実際、こういった理由で篭城した者が居たか居ないかは分からないが、舞台は虚構であるということを前提に、今、私たちが生きる世界に向けて警鐘を鳴らすには、その設定自体のリアル感のズレも含め、シンプルにひとつのメタファーとして成立する次元に至っていた。


 グローバリズム化の弊害。世界中の文化の均一化、あるいはその土地固有の文化の消滅。これは、大問題だ!


 印象に残っている台詞がある。青年は「この事態」の非礼を伝えたいとの理由で、刑事の妻に電話をしたいと言い出す。その妻がイタリア出身でありその土地をかつて訪れたことがある旨を刑事より聞いていた青年は、その土地について妻と語り出す。しかし、出自はイタリアであるが、妻が自分自身は未だイタリアには言ったことが無いことを知る。青年は訪れた時に心地良かったカフェ、ここには絶対行くべきだと妻に伝える。「そのカフェがスターバックスになる前に。」と。もちろんスターバックスが悪いと言う議論では無く、何か諦めにも似た虚無感がひたひたと私を襲い、涙ぐみ語る青年の気持ちがシンクロしてしまった。

 青年を演じた大沢たかおは、軽やかにして強靭な意思を持つ青年像を自然体で造形。長塚京三は、表裏を使い分ける曖昧な境界線を絶妙な台詞の駆け引きで魅せてくれる。いずれにしても2時間2人共出ずっぱりであり、それでいて全く飽きないどころか、展開の面白さも含めて目が離せなくなってくるのは、才能としか言いようがない。心の奥底を探り合い、あるいは思いを吐露しながらの心理の攻防戦はこの上なくスリリングだ。これには、ひとつひとつの台詞を紐解いていった演出家との緻密な作業があったからなのであろうが。


 但し繊細な演出ではあるとは思うが、シアターコクーンという大劇場において、二人芝居で両者向き合って語り合うのみの動作では、空間が小さく閉じてしまう。客席に向かって喋るのが良いかどうかはさておき、舞台上に居る2人以外にも大勢の観客が居るのだという視点が抜け落ちている気がした。濃密な小空間であれば成立するやりとりなのかもしれないが。


一旦物事を壊し、そしてそこから何かを始めるこということは、一体、有効なのか否なのかという思いを抱きつつも、体に悪いグローバリズムだけは吸収しないにこしたことはないということだけは確かなことであると実感した。