劇評298 

深刻になり過ぎないエンタテイメントとして楽しめる作品に仕上がった。

 
 
「ライ王のテラス」

2016年3月5日(土) 晴れ
赤坂ACTシアター 17時30分開演

作:三島由紀夫
演出:宮本亜門
出演:鈴木亮平、倉科カナ、中村中、
吉沢亮、大野いと、芋洗坂係長、
澤田育子、市川勇、市川しんぺー、
神保悟志、鳳蘭、他

場 : 初日2日目です。劇場のロビーには出演者の方々に贈られた花が立ち並び、花の香りでむせ返るようです。劇場内に入ると、既にセットが設えられている状態になっています。多くのレリーフが施されたライ王のテラスが再現されています。

人 : 大劇場が満席になっています。同劇場は観劇がハレの日だと感じる華やかな雰囲気がありますね。目につくのが、其処此処で関係者風の方々が挨拶をしている光景です。赤坂ACTシアターでは必ずこういう光景を目にします。

 ライ王とは、12世紀末にカンボジアを統治した王、ジャヤ・ヴァルマン七世のこと。ライ病を患ったのでライ王と称されている。ちなみに戯曲のタイトルのライは、漢字の癩と記されている。1965年にカンボジアのアンコール・トムを訪れた三島由紀夫が、そこでライ王の彫像を見ることでインスパイアされ、同戯曲は誕生した。

 三島由紀夫はジャヤ・ヴァルマン七世の資質を「絶対にしか惹かれぬ不幸な心性を持っていた」と設定したという。ライ王と冠されているが、「絶対病」の芝居だと三島由紀夫は断じている。同国の王のしきたりである王宮内の塔の上に祀られた目に見えぬ蛇神=ナーガの娘と交わす契り、そして、憑りつかれたようにその建設に執心する寺院バイヨン、この2つだけを王は必要としていた。人間の性向をこのようにあらかじめ規定してしまう創作者の思考回路と、ライ王の閉じた心象とがシンクロしていていく様が、本作の醍醐味である気がする。

 ステージにカンボジアのパフォーマーたちが現われることで、物語は動き始める。皆は神への祈りを捧げ、厳粛な雰囲気が劇場内を覆っていく。三島由紀夫は初演時、上演劇場であった帝国劇場の劇場機構を駆使することを想定していたと記述しているが、宮本亜門はスペクタクルな表現を抑制させ、ジャヤ・ヴァルマン七世の精神を戯曲の中から繊細に掘り起こすことに注視していく。初演は未見であるが、戯曲に対する演出アプローチ方法は、全く異なっているのだと思う。

 「絶対性」を求道する無垢な王を、イメージがあまり固定していない旬な俳優・鈴木亮平が演じることでピュアな心情が増幅され、観客に王の想いを確実にリーチする効果を発していく。主人公は自己の信念を迷いなく貫くが、周りの人々は絶対権力を持つ王に逆らうことは出来ず、右往左往することになる。しかし、そんなことを王は露とも知らないという落差に、行く先々の不穏さが滲み出る。

 キャスティング的に、ピュアな王の周りを囲む人々が狡猾であればある程、両者の個性がより引き立ったと思うが、王にしかと対峙していたのは王太后を演じた鳳蘭の存在であった。国の維持を考え政治的な観点から王を暗殺しようと画策する反面、子を愛でる心情を捨て去ることが出来ないアンビバレンツな思いがグルグルと逡巡する様が心に突き刺さる。

 清廉なイメージの第二王妃を倉科カナが演じるが、王を信じ慕う心の奥底に蠢く女の真情が透けて見えてくると、作品に内包されている哀感が更に感じられたのではないかと思う。第一王妃を演じるのは中村中。本能のままに生きる嫉妬深くプライドの高い女性が秘める王への思慕がもっと感じられると、王から愛されるには「絶対病」の一翼であるナーガになればいいのだという思いに転じる顛末に、説得力が生まれたのではないか。悪の権化である宰相を神保悟志が演じるが、どう見てもいい人にしか感じられないのは私だけであろうか。王太后とも密通し、陰で国を操ろうと画策する邪心が薄めなのだ。王太后を完全に牛耳る圧が欲しかった。

 作品は叶わぬ思いを抱きつつ崩御する王を冷静に活写していく。現実には朽ちていっている筈の肉体の様相がさほど変わって見えないことが、戯曲の言霊をストレートに受け止める効果を発することになる。鈴木亮平の見事な肉体が、逆に憐れを醸し出す。宮本亜門は、表裏が裏腹な三島由紀夫の筆致を見事に可視化してみせていく。

 深刻になり過ぎないエンタテイメントとして楽しめる作品に仕上がっていたと思う。欲を言えば、贖うことの出来ないドロドロとした業に縛られた人間の憐れを感じられるような、俳優陣の重層的な感情の噴出をもっと体感したかったと思う。


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