劇評25 

世界に通じる珠玉の傑作。

「赤鬼」タイ・バージョン





2004年9月17日(金)晴れ
シアターコクーン 19時開演

演出・出演:野田秀樹 
共同演出:ニミット・ピピットクン
美術・衣装:日比野克彦 照明:海藤春樹

場 : シアターコクーン大改造。
通常の客席前面に四角い白いエリアを設けそこがステージ空間。
通常のステージ部分には客席を設け、ステージは四方が客席に囲まれた空間となる。
役者は360度包囲網の中、身をさらさなければならないという状況。
人 : さまざまな層の人々が集う。ひとりで来ている率が高いかも。
ダンスなんかもひとり で見に来る人が多いが、嗜好性の強い作品
ということなのであろうか。8割の入り。

 世界に通じる傑作であると思う。初演時からタイ公演まで何度かこの舞台は見続けてきたが、これ程、戯曲のエッセンスが見事に消化され開花した稀有な作品なのではないか。



 デザインに携わる優秀な方々は、「デザインというのは何を切り捨てていくかの判断力の問題なのである。」などと良く言われるが、不安であるから色やモノを足していく未熟さなどからは完全に解き放たれた地平に位置する本作は、役者もスタッフワークも全く無駄が無く、そのいらないものを剥ぎ取ってしまったからこそ伝わる、硬質で揺ぎ無い表現がストレートに観客の胸に突き刺さってくる。



 タイの役者たちのピュアさ加減はどうだろう。かつてこの本作でタイの現代劇に風穴を空け、その後、世界を股にかけ活躍するようになっている皆であるが、初演当時のういういさは変わらず、また、ベテラン然としない余裕も身につけ、更に、自由になっているようだ。確か、皆、高学歴の者が多く、また、前回公演の記憶によると、機転の利く頭のよさが印象的であったのだが、知識を詰め込むというアタマの良さではなく、状況判断が利くという反射力の強さにおいて、どこまでもしなやかだ。


 行き場がないゆえ役者という道を選ぶという次元のパワーも捨てがたいが、自己に固執するあまり自己が伝わらないという袋小路のような役者たちが、これを見てどう思うのか? ある種の踏み絵のようでもあるが、自己から発する気持ちの高まりなどを楯に表現していると思い込んでいる輩がとても目につく今日この頃、自己を拡大するための自己鍛錬と自己投資を自分の意志でどれだけ出来るかが、まずは、表現者としての第一歩なのかもしれない、などと、思ってしまう。「天才」は別だけどね。


 日比野克彦の衣装が美しい。白い布のバリエーションがタイの役者の褐色の肌を更に美しく見せ、また、共同体というモチーフを同色で彩ることで表現しているもかもしれない。
小道具として登場するテーブルにも船にも扉にもなる物体は、イマジネーションを彷彿とさせるという点において、「アート」に他ならない。
海藤春樹の照明は絶品である。展開内容にしっかりシンクロしつつ、役者の感情的な部分までも交錯させ、且つ、微妙な変化によってそれが行われるため、野田演劇のスッと振り返るともう別の次元が始まるというスピーディーなエッジの効いたストーリー展開に、登場人物の感情的なニュアンスをアクセントとして挟み込むことに成功した。あっ、ここで話しが別次元で展開するのだな、というようなことが明らかに分かる変な切れ目がないのだ。


 日本版は4人で演じられるところであるが、タイ・バージョンは14人。個対個の対決が外部へと拡散し、共同体が仮想敵としてまたは同胞として目に見えて存在することとなった。
また、周囲を観客に囲まれるということを十分意識した演出にて、全く飽きさせることはなく、ライティングとのコラボレーションにて縦横無尽な空間を現出させていた。



 野田秀樹はこの作品においても、現代に向けてのメッセージを強烈に発してくる。排斥や不寛容が生むものとその果てには、一体何があるのか。自分はどう在らねばならないのかという問いを真摯に噛み締め、思いを馳せるところから始めなければならないのだ。