劇評249 

踏み絵のような選択を迫られる衝撃作。

 
「殺風景」

2014年5月17日(土) 晴れ
シアターコクーン 18時開演

作・演出:赤堀雅秋
出演:八乙女光、大倉孝二、荻野目慶子、
江口のりこ、近藤公園、大和田美帆、
尾上寛之、太賀、福田転球、駒木根隆介、
安藤聖、キムラ緑子、西岡徳馬、他

   

場 : 並ぶことなく、待たずに劇場に入ることが出来ました。いつも大量のチラシをエントランスで手渡してくれるのですが、本公演ではそのサーブはなかったですね。劇場内では、少し前に流行ったポップスが流れています。プロセニアムの枠内は、漆黒な状態が維持されています。

人 : 女性比率が7割位でしょうか。年齢層は、30〜40歳代がメインでしょうか。気になる出演者が出ている演劇をチェックしている方が、八乙女くんが出ているということで来場したという感じの方々なども目立ちます。

 かつて、ある一家を巡って実際に起きた殺人事件をモチーフに作られた本作は、その事件が起きた2004年と、一家の主と妻とが出会った1963年との間を行き来しながら、物語を展開させていく。赤堀雅秋の新作である。

 赤堀は人間の業を、深く抉っていく。他人を見下すころで他人より秀でると安寧する業のようなもの、金にとことん執着する欲望、暴力によって他人を支配できるのだと思い上がる感情、今が良くないのは自分が事由なのではなく周りの人や環境のせいであると断じる高飛車さなど、人間が奢れる数々の感情が陳列されていく。

 目に前で繰り広げられる惨い光景を忌避しながらも、自分の心情の中で完全に斬り捨てることの出来ない人間の生き様を目の当たりにすることで、観る者の真情までもがシンクロし、浮き彫りにされていくような“怖れ”がひたひたと忍び込んでくる。自分の内に潜む“悪”と対峙することになるのだ。

 観る者が、知らず知らずの内に洗脳されていくかのような感覚。人が人を蹂躙する、その根源にあるのは、社会のメインストリームから逸脱せざるを得なかった人々の慟哭のようなものが渦巻いているのだということを、明白にディスクロージャーさせていく。

 故に、筆致は、必然的に過去に遡っていくことになるのだ。自分たちは、何故、今、こうなってしまったのかという事実を遡り、客観的に検証して観客に提示してみせていく。描かれていく人物たちは、まるで、まな板の上で調理される魚のよう。しかし、装飾や比喩などを一切排した厳選された言葉で紡がれた台詞は、実にリアリティを持って物語を立ち上がらせていく。

 一家の主を西岡徳馬が、その妻を荻野目慶子が演じ、圧倒的な存在感を示しながら、物語を中軸から牽引していく。西岡徳馬の小粒なはみ出し者感、荻野目慶子の蓮っ葉な悪女振りは、完全に役柄を昇華しエンタテイメントとして成立させている。

 その長男を大倉孝二が、次男を八乙女光が演じていく。悪漢になりきれないやさぐれ者を飄々と演じる大倉孝二が、物語にいい意味での軽さを与えていく。カンパニーの座長は八乙女光が担うことになるが、アンサンブルの一員として役柄を生きる様に好感が持てる。アイドルのベールを取り払い、生身の人間をしっかりと生きていく。キムラ緑子の存在感も圧巻だ。高利貸しの女と、主の母の二役を二つの時代をまたぎ演じ分けていくが、女の哀れをリアルに造形しグッと物語に真実味を与えていく。

 安藤聖が、本作のタイトルでもある「殺風景」という言葉を吐くシーンが印象的だ。地方都市が抱える獏とした喪失感がサラリと語られ、市井の人々が抱える哀しみが滲み出る。観客の胸にも、ストンと腑に落ちる構成の妙に感じ入る。大和田美帆が、荻野目慶子演じる女の若かりし頃を演じるが、ビッチな女っ振りで新境地を拓く。誇張し過ぎない表現がリアリティを生むが、その匙加減が微妙で決して悪びれることない悪女な側面が見え隠れすると、役柄に陰影が増したのではないか。

  赤堀雅秋は、表舞台から零れ落ちた人間の意気を掬い取っていくが、その視点は決して温かいものではない。家族が家族としての絆を存続させ身体を寄せ合い生きていたかつての追憶と、家族という形態を持ちながらも他人を生贄にすることでかろうじて関係性を保っている今の時代とが並行して描かれることで、個々人が抱える底成し沼のような孤独感が浮き彫りになってくる。その前提を受け入れることなしに、人は人として他人としっかりと向き合うことはできないのだと断じているかのようにも思えてくる。

 本作でサンプリングされた、行き場のない袋小路に陥った多くの人々を目の当たりにすることで、ここで生きている人たちは皆、まるで、今の自分との合わせ鏡のようでもあると感じ入る。個人の鬱憤を晴らすために他人を利用する手段を取る浅はかさを選択するのか、あるいは、憤懣やるせない思いを抱えながらそのまま時を過ごすのか。人生の指針をどこにチューニングするのかは、己の芯の強さが試されることになる。まるで、踏み絵のような選択を迫られる衝撃作であった。


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