劇評231 

世界基準のワークをタップリと堪能することが出来る、幸福感に包まれた逸品。

 
「ザ・スーツ」

2013年11月10日(日) 晴れ
PARCO劇場 14時開演

原作:キャン・センバ
演出・翻案・音楽:ピーター・ブルック、
マリー=エレーヌ・エティエンヌ、
フランク・クラウクチェック
照明:フィリップ・ヴィアレット
美術・衣装:オライア・プッポ
演出助手:リッキー・ヘンリー
カンパニー・マネージャー:トーマス・ベスレフ
スキー
出演:ジョーダン・バルボア、
リッキー・ヘンリー、イワノ・ジェレミア、
ノンランラ・ケズワ
ミュージシャン:アーサー・アスティア、
ラファエル・シャンブーヴェ、
デイヴィット・デュピュイ

場 : 劇場ロビーは、至って静かな雰囲気です。劇場内に入ると緞帳は上がっており、舞台美術が既に据えられているのが見えています。四方にスポットライトが設えられ、アフリカを彷彿とさせられるようなカラーの椅子やテーブルなど、シンプルな道具が配されています。

人 :   客席は8割位の入りでしょうか。客層は何処に偏ることなく色々な人々が集います。年齢層や男女比も様々ですね。皆、ピーター・ブルックの作品を観ようと馳せ参じているのだなということは感じられます。

 1時間15分程の小品であるが、夾雑物を全て取り払った後に残る、人間が身体の中に囲い込んでいる痛みと哀しみが胸の隙間にズシリと染み入り、心が揺さ振られる。

  開演時間になると、観客席や舞台端から3人のミュージシャンが現れ、音楽を奏で始める。ギター、トランペット、ピアノである。そうなのだ。本作は音楽が重要なモチーフとなっているのだ。人間のハートを掴み出すきっかけを音楽が作り出し、作品に深い造詣と示唆を与える役割を担う音楽劇となっている。

 舞台はアパルトヘイトの嵐が吹き荒れる1950年代の南アフリカ。妻をこよなく愛する夫が、ベッドに妻を残し勤め先へと出掛けるところから物語はスタートする。トイレが共同であるという表現があるものの、そこには、アパルトヘイトを感じさせるようなアクセントがこれ見よがしに挟み込まれることはない。至って穏やかな、住宅街の爽やかな朝の光景にしか、観客の目には映らない。

 美術は、原色に彩られた椅子やハンガーラックなどシンプルな道具を駆使して、あらゆるシーンを舞台上に創り出していく。「何もない空間」に、南アフリカの生活の一部分が立ち現れていく。妻が鮮やかな赤いドレスを纏っている他、男優陣やミュージシャンはベージュや白い衣装を身に付けており、目にも美しい演出が施されていく。

 物語は、夫が職場の同僚に、妻が昼の間に男を家に招き入れているようだと耳打ちされるところから、大きく転回していくことになる。仕事を抜け出した夫が家に帰ると、どうやら睦みごとの最中に、旦那の帰還を察した男が、窓から逃げ去った後の光景が広がっていた。そこには、タイトルにもなっている、男が置き去っていった「スーツ」が残されていた。その「スーツ」に、当時の社会状況がオーバーラップしていく。

 夫は、間男が置いていった「スーツ」を、客人を持て成す様に接することを妻に強要していく。この、何とも奇妙なゲーム。購うことのできない圧力、従うしかない弱者、異を唱えることの出来ない周囲の人々など、「スーツ」のゲームは、あらゆる隠喩を含みながら、居心地の悪い奇妙な違和感を拡大させていく。

  珠玉のシーンを目撃した。妻を演じるノンランラ・ケズワが、スーツの腕に手を通すと、まるで「スーツ」が生きた男のように、彼女を抱擁していくのだ、彼女の手によって。この場面に接することが出来ただけでも、本作を観る価値があると思う。そのやるせない優しさに、安堵感を覚えていくが、なかなか複雑な思いである。

 家で催されたパーティーにおいても、衆人環視の下、妻は擬態を演じさせられることになるのだが、出自のタンザニア民謡「マライカ」を自ら謡い上げることで、ノンランラ・ケズワはあらゆる“状態”を凌駕する生命力を迸らせていく。人間が作った枠組みを、人間が駆逐した瞬間だ。

  ピーター・ブルックが演じ手を選ぶ基準は、「ハート」と「アート」にあるのだと言う。その資質に充分叶う演者とミュージシャンが、演出家の想いを見事に体現する本作は、演劇の可能性をグッと押し拡げていく。

 残酷な差別社会を、その意図を真摯に汲みながらも、軽やかさを持って描いた本作は、万人に通じる普遍性を持って、観る者に訴え掛けてくる逸品だ。周りを取り囲む環境の苦しさを表出させると共に、人間の心の豊かさを現出させる「スーツ」は、私たち、皆が持っているであろう、ある種の“しこり”をつまびらかにしていく。世界基準のワークを、タップリと堪能することが出来、幸福感に包まれた「スーツ」であった。


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