劇評22 

孤独と向き合う段階に突入した日本への警鐘ともいえる作品。
「エレファント・バニッシュ」





2004年6月27日(日)晴れ
世田谷パブリックシアター 14時開演

演出:サイモン・マクバーニー
出演: 吹越満、高泉淳子、宮本裕子、立石涼子


場 : 冷蔵庫1台が置かれた舞台。
話の展開に従って、上方、上下からいろいろなものが出てくる。
映像を駆使した演出が秀逸。
人 : ほぼ満席。年齢層はやや高めの客層。
演劇ファン、ないしは演劇関係者っぽい人が多く、
デートで見に来ました、といった風の人はいない。

 まず、開演時間を少々過ぎた頃、演出のサイモン・マクバーニーが登壇。実は照明の電源がヒートアップし芝居が始められない。回復するまでの間、私がお話をして場を繋げます、とのこと。通訳(実は出演者、立石涼子だったのだが)が、サイモンの話を訳しつつ、途中からは、サイモンが回復の助っ人で舞台袖に引っ込んでから、通訳だけが残され、馴れない風で場を取り持とうとし、客席との暖かな連携が生まれる。キメの台詞を言って通訳が去り舞台はスタートする。構えていった観客の気持ちを軽くほぐすこの芝居とは関係ない導入は、逆に芝居に没入出来る仕掛けとなっていた。



 全体的な印象が昨年の初演より薄いと感じたのは、勿論、初回の驚きというのもあろうが、堺雅人の存在感が大きかったのではないかな、とも思った。



  都市生活者の中に潜む欲望や狂気、視点の主観と客観、空間の大きさ狭さなど、観念的な概念を、様々なモチーフを用いて表現していくその引き出しの多さに脱帽である。空間を縦横無尽に使い、特に映像を駆使して表現する場作りは、時に、シチュエーションを説明するための背景となり、ある時は自分の心象風景を表わす鏡となり、また、リアルに今の自分を中継し投影するための道具となって、多面的な空間を構築していくことに成功した。映像の切り取り方自体も、イギリスという日本の視点ではない目で捉えていて新鮮な驚きがあった。


 戦後、それまでの文化を一切捨て去り邁進してきた日本がある到達点に達した今、この「エレファント・バニッシュ」が提示するメッセージは、一種の警鐘である。意識をひとつ乗り越えた日本は、今、切り離された過去とどう向き合い取り戻していくのか、という命題を、村上春樹のテキストを使い、我々に問いかけてくるのだ。様々な情報に溢れた日本。その中で一番大切何かを皆が見つける時期にきているのだ。個々が孤独と向き合い闘いながら、と…。


 役者が道具化しているという向きもあろうが、私は非常に個性を際立たせる演出にて、役者の力量が遺憾なく発揮出来ていたと思う。吹越満の軽さと重みが同時に存在する演技、高泉淳子のコミカルの中に潜むシニカル、宮本裕子の狂気と静謐の狭間、立石涼子の現実と観念の行き来など、いわゆるメソッドに依らない地平での演技幅の広さにも感心した。演技してます、という臭さがないということである。


 ニューヨーク、ロンドン、パリ、ミシガンでの公演も決まっているようだが、世界の都市生活者の孤独を、決してエキゾチズムで闘わない方法で日本発信する本作の行方を見届けていければと思う。クールシティ・東京=日本の「立ち位置」で、演劇創造発信のしていく飛躍台となることを、節に願っている。