劇評210 

壮大なる競作実験上演の試みは、見事に成功した。

     
「祈りと怪物 〜ウィルヴィルの三姉妹〜」
KERA version

2012年12月9日(日) 晴れ
シアターコクーン  18時30分開演

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
音楽:パスカルズ 美術:BOKETA 照明:関口裕二
衣装:黒須はな子 音響:水越佳一 映像:上田大樹
出演:生瀬勝久、小出恵介、丸山智己、安倍なつみ、
大倉孝二、緒川たまき、大鷹明良、マギー、近藤公園、
夏帆、三上市朗、久保酎吉、峯村リエ、犬山イヌコ、
山西惇、池田成志、久世星佳、木野花、西岡徳馬、他

  

  
「祈りと怪物 〜ウィルヴィルの三姉妹〜」
NINASAWA version

2013年1 月12日(土) 晴れ
シアターコクーン  18時30分開演

作:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 演出:蜷川幸雄
音楽:門司肇 美術:中越司 照明:大島祐夫
衣装:宮本宣子 音響:井上正弘 擬闘:栗原直樹
ラップ指導:堀源起
出演:森田剛、勝村政信、原田美枝子、染谷将太、
中嶋朋子、三宅弘城、宮本裕子、野々すみ花、大石継太、
渡辺真起子、村杉蝉之介、満島真之助、冨岡弘、新川將人、
石井愃一、橋本さとし、三田和代、伊藤蘭、古谷一行、他

  

場 :  両バージョン共、初日に伺うことが出来ました。やはり、両日共、初日独特の賑々しい雰囲気があり、気分が高揚する感じがします。蜷川バージョンの方が、ややザワザワ感が高いかな。森田剛クン目当てのファンの方々の意気が上がっていたからかもしれませんね。

人 :  ぎっしりと満席です。2階席、3階席共立ち見が出ています。観客は若い女性比率がやや高い気がします。やはり、森田剛クン人気ということでしょうか。しかし、老齢の方々、男性の方々も万遍なくいらっしゃいますね。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチの新作戯曲を、ケラ本人と、蜷川幸雄が演出を執る話題の競作である。以前、野田秀樹と同様な公演を行った蜷川ではあるが、演劇界を牽引する御仁が、こういう賑々しい企画に果敢に取り組むのは、何とも楽しく嬉しい事だと思う。

 本戯曲は、ケラが役者に宛書せずに書かれたものだというが、蜷川が演出するということは当然念頭にあったに違いない。タイトルにもある三姉妹は「三人姉妹」や「リア王」が想起させられ、民衆はコロスの様に仕立て上げられる。シェイクスピア、チェーホフ、ギリシア悲劇と、蜷川がこれまで手掛けてきた演出作品の要素が其処此処に散りばめられ、ケラが蜷川へのオマージュを捧げているには明らかだ。

 両作の醍醐味は、何といってもキャスティングにある。ケラバージョンは、今、演劇界で活躍する旬の実力派俳優を揃えたオールスターキャストにある。蜷川バージョンももちろんスターが顔を揃えるが、主演の森田剛は人気アイドル、注目の若手・染谷将太などの他、映像でも活躍する原田美枝子や中島朋子、そして、三田和代、伊藤蘭、古谷一行といったベテラン俳優なども居並び、出自や活動フィールド、年齢層が幅広い印象がある。どの役者陣も適材適所に配されており、競作に相応しい顔見世興行的な華やかさが堪能出来る。

 役柄の全てに均等に思い入れを込め、よくもこれだけの俳優陣が集ったなと思わせるケラのキャスティングと、意外性とアクセントを盛り込み、俳優同士の化学反応を期待する蜷川の思いが如実に現れた選択だ。

 話は、架空の町「ウィルヴィル」の支配者一家と、その町に住む被支配者である住民たちが織り成す愛憎や死、そして連鎖する血縁の契りなどが語られ、閉塞感が充満する町の出来事の中に、不具、差別、宗教、呪術、錬金術、テロ、闖入者といったスペックが散りばめられていく。一見、中世の古典的な大河ドラマの様相にも見えるが、ケラは人間の暗部をシニカルに切開し、まるで顕微鏡で覗き見るがごとく微細な感情を抽出した、ブラックなファンタジー・ワールドを展開させていく。

 ケラバージョンは舞台にしっかりとウィルヴィルの町を造り出す。精緻な町の造形、時間がはっきりと示される明かりの色や注ぎ方、西洋の何処かであることが想起させられる衣装など、細部に渡るまでケラが思い描く世界が隙間なく構築されていく。蜷川は、そのケラの意図を推測したのであろうか、素舞台に近い美術に、意味性を排除した明かりの在り方、東洋と西洋が入り混じったテイストの衣装といった、全く正反対のコンセプトで参戦する。演出家によって、同じ戯曲がここ迄違うものになるのだという見本のような両作である。

 ケラバージョンは映像を駆使し、物語の世界観を押し拡げていく。閉じた町の澱んだ空気が、映像によって一気にパースペクティブに飛翔する。しかし、何と言っても一番驚いたのが、蜷川バージョンのコロスの扱い方だ。なんと、コロスの台詞を全てラップのリズムで語っていくのだ。ラップはこの物語が帯びた神話性を剥ぎ取り、そこに生きる人間の本質を抉り出そうという気概を叩き付けてくる。また、戯曲に書かれた場面を表すト書きが、テロップとなって表示されるのも面白い。この手法を採ることにより、舞台が俯瞰した視点を獲得し、逆に、物語に神話性を付与していくことになるのだ。

 ケラバージョンは、まるで上質なゴブラン織りのように見た目に美しいが故に、その奥底に蠢くダークな部分が浮き彫りにされていく。表裏の美醜が共鳴し合い、人間の、そして、世界の矛盾に満ちた成り立ちの有り様がユーモアを交えて提示されていく。蜷川バージョンでは、その町に生きる人々のリアルな生き様を微細に描ききる。人間世界を徹底的に人間臭く描くことにより、マクロ=神の視点との対比をクッキリと照射させ、人間の贖うことの出来ない命運を提示していく。ケラがマクロとミクロを物語上に共存させていたアプローチとは意を異にする。

 演出に正解はない。それ故に、この2作品は壮大なる格好な実験上演だったと思う。そして、その試みは、見事に成功した。同じ戯曲が描く世界は全く異なり、その世界で生きる人々が抱く思いのニュアンスも微妙に異なって現れてくる。しかし、両者に共通することがある。それは、人間の“生きる”という欲望の強烈な意志だ。町中に死臭が漂う中、それでも人は生きようと必死にもがいていく。何があっても生き抜こうとする人々の姿に、ケラがこの作品に込めた思いを、しかと感じることが出来た。


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