劇評208 

事象と感情が綯い交ぜになって混沌とした“現実”を、クレバーにアートに描いて秀逸。


 「ポリグラフ」

2012年12月16日(日) 晴れ
東京芸術劇場シアターイースト  15時開演



構想・脚本:マリー・ブラッサール、ロベール・ルパージュ
翻訳:松岡和子
演出:吹越満
出演:森山開次、太田緑ロランス、吹越満

  

場 :  客席は、シアターイーストのオーソドックスなゾーニングに設えられています。劇場内に入ると、ステージは既にオープンになっています。舞台上には様々なモチーフが配されており、アーティスティックな空間が広がっています。

人 :  ほぼ満席ですが、やや空席がありますね。色々な要素が詰まった公演ですので、皆、様々な理由で来場しているのでしょう。年齢層も男女比も偏ることなく、満遍なく幅広い観客を動員しています。

 吹越満は、実にスリリングでエッジの効いた数々の手法を駆使しながら、まるでモダンアートのエキシビションのような、刺激に溢れ、知的興奮を掻き立てる作品を創り上げた。

物語を生身の俳優が演じ表現するという概念において、本作は演劇というジャンルに括られるのかもしれない。しかし、時間軸がことごとく入れ替わり、また、今ここで起こっている現実と過去、そして、幻想を常にシャッフルし続けることで、物語自体が虚構の世界の出来事なのかもしれないという錯覚を観客に引き起こさせていく創りにおいて、演劇の範疇を軽々と逸脱しているとも言える。 

 しかし、演劇というライブの特質を活かし、人間の感情を全面に押し出していくため、決してクールなテイストに陥ることはない。どのようにシーンを構成していくのかという“意図”を感じさせない技を繰り出していくのだ。シークエンス同士の繋がりが自然に融合したり、言葉と言葉のつなぎ目が登場人物たちのヒリヒリとした思いで紡がれたりしていくため、観客は、その都度、登場人物たちの想いに深く共鳴することになる仕掛けだ。

 殺人容疑で<ポリグラフ=嘘発見器>で取り調べられた過去のあるゲイの男を森山開次が演じ、その隣人で女優でもある女を太田緑ロランスが演じる。吹越満は自殺現場を目撃してしまったその女を自宅に連れ帰ることで、彼女と付き合い始めることになる犯罪学者を演じるが、後に、かつて男を取り調べたのがこの学者であることが露見していく。

 学者は男に、容疑者リストからは外れた旨を彼に伝えていなかったため、男は未だ容疑者というレッテルのトラウマを抱えており、その歪みが物語に染み出していく。もしかしたら、自分は殺人者なのかもしれないという男の思いが其処此処に散逸し、一種の幻想にも似た奇妙でいびつな感情をステージに放り込んでいく。また、学者はかつて妻子を置き、ベルリンの壁を越えてカナダへ亡命してきたという過去を持っている。女優は、その過去の殺人事件をモチーフにした映画に出演しており、未解決の猟奇事件の被害者を演じることに、沸々と生理的に受け入れられない感覚を身に纏い始めている。

 皆はまるで、見えない透明の壁の中に感情を閉じ込められた、囚われ人のような孤独を背負って生きているのだ。その膜を決して超えることの出来ない思い、繋がることなく逡巡する心の叫びが、痛い程観る者に叩き付けられてくる。

 全裸の女に被さる人体解剖図のような映像、書庫がベルリンの壁へと転じる映像、猟奇事件を再現したシーンとその場を映像として壁に投影するなど、映像と、生身の役者と、語られる台詞とがリンクしながら、趣向を凝らした方法で物語を繰り広げていく様は、これまでに観た何物にも似ていないアーティスティックなオリジナリティーを獲得している。

 森山開次はダンサーであるその資質を大いに活かし、立ち回るその連続した動き自体が華麗なのだが、不安定な椅子に乗りながらマゾとしてエアーの鞭打たれるシーンなどの動きには思わず感嘆せざるを得ない。凄い。

 フラッシュが瞬いているので詳細は勿論はっきりと視認出来ないのだが、3人が全裸で、ちょこまかと日常のやりとりをマイムで演じるシーンも印象的だ。美しく儚い。そして、何よりも、人間の営みって、まるで、チャップリンの映画のように、可笑しくて、また、滑稽なものなのだということが心に染み入るように訴えかけてくる。

 オープニングでは、吹越満が諸注意を話した後、「では、始めます」と言って場を一変させたが、最後も「終わりです」と言って終幕するそのセンスも抜群に格好イイ。演劇は所詮作りものであるということを踏まえ、頑張ったことを、カーテンコールで見せないクールさが、より、作品の真髄を作品の中に封じ込めることに貢献している。

 人の存在の曖昧さ、心に内省する想いの不確かさ、知らず知らずの内に見えない壁に覆われている現実、しかし、それを超えようともがいている日常、そして、その滑稽さなど、事象と感情が綯い交ぜになって混沌とした“現実”を、クレバーにアートに描いて秀逸である。