劇評163 

微妙に古いリアル感を現代にブリッジするためには、もう一工夫欲しいと感じた佳品。

「トップ・ガールズ」

2011年4月2日(土) 晴れ
シアターコクーン 18時開演

作:キャリル・チャーチル
演出:鈴木裕美 翻訳:徐加世子
出演:寺島しのぶ、小泉今日子、渡辺えり、鈴木杏、
   池谷のぶえ、神野三鈴 / 麻美れい

場 :  劇場入口付近はいつもの賑やかな雰囲気ですが、ロビーに入ると静かで自粛ムードです。物販は通常、出演者関連商品やコクーンで上演されたDVDなどの販売がされていますが、今回はパンフレットのみの販売です。しかも、パンフ販売売上金や上演収益の一部は義援金として寄付されるとのこと。パンフ(1000円)を買うと、代金はその場で義援金ボックスに即投入されるんです。ささやかながら、寄付に貢献させていただきました。
人 :  ほぼ満席です。客層は女性が多いですね。男性も2割位の比率でいるのですが、女性客の連れ、といった感じですね。男性一人では、なかなか行き難い演目なのでしょうか。今、旬の女優さんが居並ぶ作品なんですがね。

 これだけ豪華な女優陣が同じ板に乗るという、そのこと自体が本作のまずは最大の見所であると思う。観客もこのキャスティングに惹かれて来場した方がきっと多いのではないだろうか。これはまさに演劇が、今を表現する旬の生ものであるという特典である。そして、演出はジテキン!が懐かしい、今やベテランの鈴木裕美である。プロの女性演劇人が、女性をどう描いて我々観客を唸らせてくれるのか、期待が高まっていく。

 かつて観た「クラウド9」も同様であったが、作者キャリル・チャーチルは、時空を軽々と超越する場面構成を平然とやってのけるところが面白い。本作も、誰もが知る有名人ではなく、知る人ぞ知る、時代も国も違うさまざまなタイプの先駆者的な女性が一同に会し、明け透けな会話を交わすシーンから物語はスタートする。場面としては、寺島しのぶ演じる、現代のロンドンに生きる女性エグゼクティブの昇進祝いに、皆が駆け付けるという設定だ。

 女性がこれまで甘んじて受け入れてきた、男社会の中における軋轢や障害、そして、心の痛みなどを、悲嘆に暮れる暇も無い程もの凄くポジティブに、それぞれ皆が吐き出し合う光景は、怖いもの見たさ感を観る者に満足させ得るに足る面白さに満ち溢れている。まあ、相手の話は聞かないわ、言葉尻は喰うわ、瞬時に話題を自分の事に振り変えるわと、その嬉々とした何時の時代でも変わらないであろう、女性達の勝手気まま振りが最高に可笑しい。皆が激しく拮抗し合う様が上手くスパークするため、これだけのクラスの女優を集めたことが完全に意味あるものとして昇華する。そのような役者の個性を生かした演出の手綱捌きも、なかなかいいと思う。

 一幕で、女性の存在の在り方を根源的な次元にまで掘り下げた後は、現代のロンドンに場を移し、今を生きるキャリアウーマンたちをピックアップし、現代を照射させていく。そして、これからの時代に、女性が立ち向かうべき道や問題に鋭く斬り込んでいく。

 本作は、サッチャー政権下の1982年に書かれているため、物語のディティールに多少の違和感を感じざるを得ない表現などが、其処此処でだんだんと見受けられるようになってくる。大きな歪みではないのだが、古色蒼然感が漂い始めるのだ。冒頭で、ある種の、普遍的な女性観が描かれていたこともあり、その落差感に戸惑いを感じていく。演出も戯曲世界を現代に敢えてブリッジさせようという意図はあまり無く、戯曲を忠実に描くことに徹しているため、何故か、過去の出来事を見ているような気分になっていくのだ。

 音響なども、シーンとシーンとの合間や場面の背景に流れているのは、パソコンを打つ音であったり、人の囁き声であったりと、オフィスイメージの表現が古いなと感じてしまう。映画「ワーキング・ガール」の頃の様な感じだ。また、時に雑踏や車のクラクションの音などがシーンに被る事があるのだが、高層ビルなのだろうなと思って観ていたオフィスのシーンが、路面店の様な低層のビルのイメージに摩り替わっていく。外の音がそんなにリアルに聞こえてくるオフィスなの?という違和感を抱いていく。唯一、登場人物たちの心情とクロスするかのような、乾いた風の音だけが普遍性を獲得しており、観る者の心にズシリと響いてくる。音楽が使用されないため、音は重要なファクターになるのだが、それにしては、音の選択の基準が、散逸している気がした。

 役者はその誰もが素晴らしいが、寺島しのぶとその姉を演じる麻美れいとの対話のシーンが、実にスリリングだ。女性として対極にあるような生き方をしてきたような2人であるのだが、果たしてどのように生きていくことが女性にとっての幸福なのかという問題がストレートに提示され、明確な答えは出さずにその問いを観客へと投げ掛けていく。女性のDNAに脈々と刷り込まれてきたであろう、生きていくことの根源的な不安感から抜け出すことができない女性達の憂鬱が、ロンドンの鉛色の空のように劇空間を覆っていく。そして、少女を演じる渡辺えり!の最後の台詞がこう吐かれる。「怖いよ」。

 ラスト、舞台後方の背景が取り払われると、何層かの段に設えられたさまざまな時代の女性達の彫像が背景に現れてくる。そこには、ダイアナ妃の姿なども見受けられ、女たちの受難の経緯が一気に見て取れる訳なのだが、ここでも、やはり、過去に焦点が当てられているため、中央に立ちすくむ女性達の思いを現代の観客へとつなぐ、何かもう一つ、強力なファクターが欲しいなと思ってしまう。額縁の中に見た、80年代の女性の姿、という印象にどうしてもなってしまい、舞台上の女性達の思いが観客席に届いてこない。

 

 さまざまな社会的システムが崩壊し混沌とした現代の社会においては、逆に女性の強さこそが際立ってきているのが現状であると思う。拠るべきもののない男たちの、何とか弱弱しいことか! 役者はいい。しかし、微妙に古いこの戯曲のリアル感を、その時代とは様相を全く異にする現代に移し変えて提示するには、何かもう一工夫欲しいなと感じてしまう佳品であった。かえって男性が演出した方が、この戯曲に潜む女性の根源的な渇望感を、客観的に掬い出せたのかもしれないなとも思いを巡らせてしまう。