劇評162 

三浦大輔のリアルな演出アプローチが、人間心理のひだの表裏を説得力を持って描き出す。

「ザ・シェイプ・オブ・シングス」

2011年2月19日(土) 晴れ
青山円形劇場 18時開演

作:ニール・ラビュート
演出:三浦大輔
翻訳:吉田裕一
出演:向井理、美波、米村亮太郎、川村ゆきえ

場 :  青山円形劇場である。通常は会場中央に舞台を組む場合が多いが、本公演は一方向に寄った所にアクティング・エリアが設けられている。ただし、会場外へとつながる花道が2方向に設えてあるので、観客は3つのエリアに分かれて鑑賞することになる。いすれにしても300人位のキャパなので、役者とは至近距離で接することが出来、臨場感満点である。
人 :  満席です。その内、9割9分が女性客ですね。年齢層的には30歳代前後の方がボリュームゾーンだとお見受けします。しかも皆さん、お洒落な装いの方々が多いです。演劇ファンという感じではないですね。まあ、ほとんどの人が、向井理目当てなのでしょうね。何だか妙な熱気が会場内を覆っています。

 ある特定の者にしか見せることのない、人間の中に巣食う暗部とも言うべき側面を切っ先鋭く描いて秀逸な三浦大輔が、ニール・ラビュートの戯曲を得て、自作と通じる生々しい触感はそのままに人間心理の奥底へと分け入っていく。言葉の運び方、感情の放出の仕方などが非常に繊細で丁寧に描かれていくため、まるで身近な友人の身に起こった事の顛末を覗き見しているかのような、リアルで秘密めいた展開に思わず身を乗り出してしまう。覆い隠したものを露見させるというシンボリックな出来事が冒頭で引き起こされるのだが、その有様が終始舞台上に鎮座し睨みを効かせていく。

 役者たちの演技表現が、実にリアルなのが特徴だ。舞台上で台詞を喋っているという嘘臭さは全く消し去られ、大仰なアクションもそこにはない。他人との距離感の取り方や、言葉と言葉との狭間に鋏み込まれた感情を、俳優陣が徹底して己の中で昇華させ表現しているのだ。そこでは戯曲の流れに沿って物語が展開しているのだという予定調和に縛られることなく、役者の生の感情が最優先されているため、その強力な磁力についつい気持ちが引っ張られていってしまう。狭い空間でもあるため、登場人物たちの息づかいが直に伝わり、その一挙手一投足から目が離せない。

 向井理演じるアダムは、小太りで見たくれにも全く気を使わない大学生だが、バイト先の美術館で出会った美波演じるイブリンと付き合い出すことで、だんだんと垢抜けた男へと変身を遂げていく。そのアダムが、容姿が洗練されていくのと比例して行動面が非常にアグレッシブになっていくという、友人たちも目を見張る変貌を遂げるその様が面白い。一見、男版ピグマリオンの様な展開なのだが、その奥に仕掛けられたえぐいトラップが終盤に露見する。

 この物語の真実を突き付けられた時、私の中を様々な思いが去来するのを、自ら自覚することになる。人間が創り上げるアートとは、一体何なのであろうか、と。劇作という創作物の中に、どこまでが日常でどこからがクリエイティブなのかという線引きの曖昧さを潜ませるという二重の入れ子細工の工夫を施しながら、その大いなる疑問に鋭くメスを入れていく。

 また、愛ははっきりと形を持って見えるものなのかということについても考えさせられる。交わす言葉、重ねる身体、それ自体は既成事実なのだが、その表出した部分に見えているはずの愛というものは、実は真実ではないのかもしれないと言うリアル。

 そして、ルックスというものが、自分に、また、人に与える影響は多大なものがあるということ。実は人間は、その見た目に合った役割を自らが見つけ、そして、その役を演じているのではないかという深層心理の奥底が垣間見えてくる。

 本作は人間のレーゾンデートールへと筆致が深まり、アダムが受けた体験を通して、人間本来の在り方とは一体何なのか、という大きな問いを観客に叩き突けてくる。「ザ・シェイプ・オブ・シングス」、そこにあるはずの“モノノカタチ”を決して安易に受け入れることなく疑ってみることで、人間は別視点を獲得し、そこにある“真実”を炙り出していく。そのことこそが人間の真実に迫るアプローチだと言わんばかりに、観客に過激にアジテートしてくるのだ。グラグラと自らの価値観が揺らぎ出す。

 向井理が初舞台ながらもアダムという人物を丁寧に造形しながら、旬のオーラを振り撒いていく。また、彼を見つめる女性観客たちのとろけるような眼差しが、会場内に生々しい雰囲気を創り出していく。美波はイブリンという独特な存在の在り方を、リアルで繊細に紡ぎ上げていく。ともすると悪役にも成り得る役どころなのだが、信念を持って行動を起こしているという一切の迷いのなさが潔く、イブリンという存在を周囲に認めさせてしまう強烈な存在感を示していく。また、米村亮太郎の身体を通すことでフィリップという役柄は日本の等身大の若者の姿として提示され、川村ゆきえ演じるジョニーも日本の何処にでも居そうなある種の普遍的な女性像として造形されているため、翻訳劇の違和感は消し去られていく。

 登場人物たちを皆、現在のどんな生活空間の中に居ても不思議ではないような存在として描き出した、三浦大輔の演出力が独特で秀逸である。そして、その要望に応えた役者たちが表現するリアル感が、演劇的な華蓮味とは地平を異にするオリジナリティーある表現を獲得している。その現実的な表現があるからこそ、この戯曲に描き込まれた人間心理のひだの表裏が、説得力を持って表現できたのだと思う。

 ラスト、アダムの落胆した慟哭が耳に残るが、人間は変化出来るパワーを持った生き物だという側面も炙り出す。そして、衝撃的な物語は、再生の余韻を残しつつ幕を閉じるのだが、劇場を出た後も、未だ引き摺っている何かがあるのだ。そのしこりこそが、生のエンタテイメントならではの、醍醐味であると思う。何も残らないのでは味気ない。確実に作品のメッセージは、観客に到達し得たと思う。