劇評158 

観る者それぞれが自らを顧みることができる、誠実な良作。


「浮標」
 

2011年1月22日(土) 晴れ
神奈川芸術劇場 大スタジオ
18時開演

作:三好十郎 演出:長塚圭史 
出演:田中哲司、藤谷美紀、佐藤直子、大森南朋、
    安藤聖、峯村リエ、江口のりこ、遠山悠介、
    長塚圭史、中村ゆり、山本剛史、深貝大輔

場 :  神奈川芸術劇場の杮落とし作品である。新品の劇場に初めて足を踏み入れましたが、アトリウムがドでかいのにビックリです。迫力ある造りはインパクトがありますが、劇場へは、アトリウムを囲むように設置されているエスカレーターで、3〜4階分位上っていかなければなりません。急いでいる時などは、これ、焦りますね。 大ホールということなので、かなり大きいのかと思っていたら、200席位のキャパなんですね。オレンジの椅子が鮮やかで綺麗です。舞台が設えられているエリア上部の周囲を囲むように、これまたオレンジに塗られた細い鉄枠が何本も掲げられています。これ常設な感じがするのですが、演目によっては、作品のクリエイティビティに大きく作用を及ぼすことにもなるのではないかという、危惧も抱きます。
人 :  満席です。客層は老若男女さまざまな人々が集います。こういう客席、健全でイイと思います。観たい人が観る事が出来る演目選定、正しいと思います。今後のプログラムにも期待していきたいですね。男女比は半々ですが、男性はお一人で、女性はお二人での来場が目立つような感じがします。これは、面白い傾向だなと思います。客席には、林文子横浜市長の姿がありました。知り合いと挨拶している姿が、政治家です。当たり前か。通路前のセンターという、良い席に座られています。やはり、VIP待遇ですな。

 開演時間になると、出演者全員が舞台に登場し、演出と出演を兼ねる長塚圭史が挨拶を始める。挨拶は、芝居の延長でも、演劇的でもない、ごく自然な態度で、来場してくれたことのお礼や、上演時間が長いが気楽に見てくださいなどと語っていく。舞台は箱庭のような設えでその中には砂が敷き詰められている。その舞台の周囲は黒い板張りの廊下で囲まれており、上下のエリアには椅子が常備されている。挨拶を終えた役者たちは、その椅子へと還っていく。

 上下に設えられた椅子に座るその役者たちの存在が、演出的に大きなアクセントになっている。砂が敷かれた舞台で演じられている台詞や、ちょっとした行為がきっかけとなり、その役者たちは中央舞台へと登場したり、舞台袖へと引っ込んだり、あるいは、控えていた袖から登場したりと、シーンが壊れないよう、静かに、自然に、行き来をするのだ。

 役者たちは椅子に座っている間は舞台をじっと見つめていたり、袖から出てきた役者が隣に座るとそれに反応したりと、観客と同様な視点を持っているため、内へ内へと収斂しがちな物語のベクトルを外へと引き戻す役割を担い、観客の思いがスッと重ね合わせることが出来るエアポケットのような隙間が生まれるのだ。長塚圭史の繊細な手捌きが、作品に深みを与えていく。

 三好十郎作の「浮標」は、1940年初演の戯曲である。三好十郎は反体制派の詩人として出発したが、本作は「イッヒドラマ(私戯曲)」と作者自身が位置付けている通り、実際に起こった体験を元に書かれた作品である。戦渦が拡大する中、病床の妻や出征する友と真っ向から対峙し格闘する画家久我五郎には、作者自身の思いが投影されているわけだ。死と向き合う真摯なまでの愚直さが、リアルにズシリと胸を打つ。

 演じる役者たちが、一生懸命に真っ直ぐ生きる当時の日本人の在り方を甦えらせていくことで、逆に、今、日本人が失いかけているのかもしれない、礼節や美徳の精神などが染み出してくる。また、砂の箱庭という設定や上下で役者が見守るという入れ子細工があるため、思い悩みながらもとにかく生きるという行動力、熱い情熱みたいなものが、逆に、くっきりと鮮やかに浮かび上がってくる効果を発揮していく。

 演じる役者も直球勝負でそれぞれの役柄に挑んでいく。中軸となる久我五郎を田中哲司が演じるが、さまざまな死の予感を前にして、どうしても整理をつけることのできない男の悲しみと、時に直情的に怒りをぶちまけるエゴイスト振りの間を逡巡する様に純粋な愛を挟み込み、大胆かつ繊細に役柄を紡ぎ上げていく。出征する友の大森南朋の迷いを越えた毅然とした姿が、迷いを断ち切れない久我とくっきりと好対照を示し、お互いが照射し合うことで、物語にグッと厚みが加わった。病床の妻の藤谷美紀は、生きるのだ、という人間の力強い魂を感じさせ、終始動かぬ状態でありながら、強烈なパワーを放出する。

 佐藤直子の強さとしたたかさ、安藤聖の儚さ、峯村リエの狡猾さと弱さ、江口のりこの冷静なリアリスト振り、遠山悠介の無垢さと無知さ、長塚圭史の無常を受け入れる達観した在り方、そして、中村ゆりの生と性の発露が彩りを添え、山本剛司のコンプレックスと格差を抱合する矛盾を引きずり、深貝大輔の優しさと捕らえどころのないスケール感を感じさせる。役者それぞれが、役柄から生きた真髄を掘り起こし、見事なアンサンブルを繰り広げる。

 

 あらゆる状況が違うので少々大袈裟な言い方になってしまうかもしれないが、ある意味苦難の時代という点においては、先行きの見えない空気感に覆われる現在にシンクロするところがあるのではないだろうか。今、この戯曲を長塚圭史が提示した意味を、強くそこに感じてしまう。そして、現実を直視し逸らさず立ち向かう人間の姿を目の当たりにすることで、今、我々がやらなければならないことは一体何なのかということを、しかと考えさせられることになる。乗り越えなければいけないこと、それは、社会との闘いかもしれないし、常に自分の内なる部分に巣食っている迷いであるのかもしれない。観る者それぞれが自らを顧みることができる、誠実な良作に仕上がっていると思う。