劇評155 

2011年、狂気が見え難い現代日本の時代性や若者像が、結果、如実に現れた実験作。


「時計じかけのオレンジ」
 

2011年1月2日(日) 晴れ
赤坂ACTシアター 17時開演

原作・脚本:アンソニー・バージェス
上演台本・演出:河原雅彦
音楽監督:内藤和久 振付:井出茂太
出演:小栗旬、橋本さとし、武田真治、高良健吾、
   山内圭哉、ムロツヨシ、矢崎広、桜木健一、
   石川禅、キムラ緑子、吉田鋼太郎、他

場 :  1月2日である。初日である。小栗旬である。開演前から、ロビーは賑々しく、お正月らしい華やかさが充満しています。ロビーや階段にはズラリと生花が立ち並び、艶やかさに拍車を掛けています。ロビーでは、パンフレットを買うお客さんの長い列が目立ちます。会場に入ると、白いブレヒト幕が垂れ下がった状態の舞台が現れます。おっ、ブレヒト幕?と思ったら、やはり美術は堀尾幸男さんでした。最近、氏が担う作品で、たまにブレヒト幕を見掛るものですから、そうなのかな、と。
人 :  満席です。女性客が7割位を占めているでしょうか。何だか熱気ムンムンです。小栗旬や高良健吾のファンが多いんでしょうね。でも、奥さんや彼女に連れられて来た男性陣も多く見受けられます。全体的に演劇を見慣れた人ではなく、イベントにでも参加するような感じで来場している方々が多いようです。演劇の裾野を広げるという意味では、物凄く貢献している演目だと思います。

 映画版を観ていない人は本作を観てどのような衝撃を受けるのかは、キューブリック作品を何度も観ている私にとっては、もはや想像することは出来ない。勿論、映画版と物語は同じな訳だが、本作には舞台版ならではの独自の美学が展開されていることを大いに期待していた。しかし、こと、役者の演技スタイル、美術、衣装、メイクなど、可視的なるものに関しては、映画版のイメージに引きずられているようであり、映画版のオリジナリティーを凌駕することは出来なかったと思う。大きな課題に挑戦したものなのだなあ、と感じ入る。

 しかし、映像をふんだんに使った効果は、本作独特の演出である。映像が作品の添え物ではなく、物語の進行を大きくサポートしているのだ。但し、映像を舞台で使うということ自体に新鮮さはなく、観客に強烈なインパクトを与えるまでには至らない。

 こういった感想を持つのは、映画版に匹敵するぐらいの衝撃を本作に期待していたからであり、そういう期待がなければ、映画の表現を上手く取り込み、舞台版ならではの味付けがされた「時計じかけのオレンジ」として、まとまりある作品にはなっていたと思う。演出の河原雅彦は、独自のアグレッシブな表現を最優先にして追及していくというより、原典を租借しながら、キャスト、スタッフの中にある才能をアジテートして掴み出し、バランス良く全体をまとめ上げていくことに徹している気がする。

 但し、パンクオペラと謳われているように、ミュージカル風の歌曲ナンバーが盛り込まれているのが本作の特徴になっている。その歌が面白い。結構、歌の数はあるのだが、何故か、歌だけ突出して聞こえてくることがないのだ。集団で歌われるアンサンブルナンバーが多いということもその理由の1つであるのだとは思うが、語るようなトーンで歌われるため、前後のシーンと違和感が生じることがない。また、変にショーアップしない演出も功を奏している。独特である。

 悪戯を尽くす悪ガキたちの暴力沙汰は、アレックスが逮捕されることで終止符を打たれるが、そこから徐々に本作独自のアイロニーが染み出してきて、物語のブラックな側面を炙り出し本領を発揮していく。「ロドビコ療法」なる人格矯正法をアレックスに施すことにより、内務大臣、牧師、ブロドスキー、ブラノムなど体制側の人間たちの矛盾や滑稽さがだんだんと浮き彫りになり、一体誰が本当の犯罪者であるのかという基準が消滅するという価値観の逆転現象が快感を呼び覚ます。そして、その欺瞞に満ちた矛盾が、じわじわと観る者に伝わってくるのだ。

 小栗旬を始めとするドルーグたちには、もっと危険で火の点く位の熱い狂気を感じたかった。今どきの青年がじゃれ合っているかのような軽さがどうしても漂い、一線を越えたキレル瞬間を垣間見ることは遂に出来なかった。脇を固めるベテラン勢は、ズシリと見応えがある。橋本さとしの諧謔さ、吉田鋼太郎の丁々発止な発破の掛け具合、キムラ緑子の逡巡する様子、石川禅の矛盾を包括したやさぐれ具合いが可笑しい。その中でも、武田真治のバラエティーで鍛えたユーモアセンスが一際映え、アイロニカルなアクセントを作品に付け加えていく。山内圭哉の安定感、桜木健一の存在感も印象に残る。

 矯正を解かれ元通りになったアレックスに後日談があるというのが、この舞台版の大きな特徴になっている。これは、アンソニー・バージェスがキューブリック版に意を唱えて付け加えたものであるらしい。アレックスがこれまでの全ての悪行は若気の至りであったと歌い上げるのだが、この唐突さ、真っ直ぐな真面目さが、作者の意図に反して、馬鹿馬鹿しくも可笑しいのだ。このエンディングはことさらレビュー仕立ての演出が施されているところに、演出家のシニカルな視点を感じることになる。

 バランス良い采配で、参加者たちの才能を美味く引き出した演出の手腕を感じるが、他に追随することのない本作独自の圧倒的なビジュアル・インパクトを感じることは出来なかった。また、作品が孕む狂気の表出が、モダンダンスの様に洗練されているのも気になるところだ。ドルーグたちに全く怖さを感じないのだ。結果、創り手が意図したことではないのかもしれないが、2011年、狂気が見え難い現代日本の時代性や若者像が、如実に現れた舞台になったと思う。舞台は時代の合わせ鏡であるということをひしと痛感することになった。