劇評149 

松本幸四郎を得て、カエサルという一人の英雄の生涯の断片が浮かび上がる。


「カエサル」 〜「ローマ人の物語」より〜

 


2010年10月3日(日)晴れ
日生劇場 15時開演

原作:塩野七生 脚本:斎藤雅文 演出:栗山民也
出演:松本幸四郎、小澤征悦、小島聖、小西遼生、
    瑳川哲朗、勝部演之、水野美紀、
    渡辺いっけい、高橋惠子

場 :  初日である。エントランスに満員御礼の看板が掲げられています。ロビーでは、関係者風の方々が円陣を囲んで談笑したり、其処個々で挨拶が交わされていたりとか、初日らしい雰囲気が漂います。来場者もこの日のためにお洒落をしてきたような方が目立ちます。日生劇場がハレの場になっています。
人 :  満席です。まあこれだけの大箱ですから、客層も様々です。若者から年配の方までが万遍なく揃いますが、やや、年齢層は高めかな。男女比は半々位です。概して芝居は女性客が多いですが、本作は男性客の興味を喚起させるどんな要素があったのでしょうか。塩野七生氏の「ローマ人の物語」が原作であるところがその所以でしょうか。

 塩野七生の「ローマ人の物語」は人物に迫る筆致が、その者に対する功績や人物像への評価と相まって、氏が感じる男としての魅力を冷徹に描いて独特であるが、本作「カエサル」は、歴史的なエポックにおける武勲としての姿と、プライベートでの放蕩さをパラレルに描いていくことで、カエサルという人物に迫ろうという構成になっている。

 時に叙事的に、また叙情的にと、ともすると物語が散逸しかねない危険性を同時に孕む側面を持つ脚本であるとも思うが、作品に大きなうねりを作り出す要因となったのは松本幸四郎の存在があったからに相違ない。物語の矛先や俳優陣の意識などが、松本幸四郎という大木に向かって全て収斂していくのだが、松本幸四郎はその全てを受け入れる土壌があるため決して破綻することがないのだ。

 作品としてはまとまりを見せる出来であるとは思うが、松本幸四郎のパワーを持ってしても、本作がカエサルという人物像にどこまで迫ることができたのかというと、少々、疑問が残る。「ローマ人の物語」という原作があるため観る者のハードルも自然と上がることになるが、両作はカエサルを英雄としてではなく一人の人間として描くという点において共通しており、台詞にも原作からの引用があることなどにも起因するのであろうが、どうしても原作の断片の集積である印象は免れない。

 また、独白が多いというのも気になるところだ。沢山の人物を描くには独白は必要な表現であるのだと思うが、そこでは登場人物たちが相まみえるような舌戦が描かれることはない。カエサル以外の者たちは毅然と立ち続けるカエサルの周りを巡る衛星のようであり、まるでカエサルを語るエピソードのピースのひとつとして存在しているように思えてくる。個々の個性を際立たせるというよりは、各々が現状や心情を説明するために台詞を利用しているような感じさえする。しかし、台詞の中で何回も語られる、暴力の連鎖を断ち切るために必要な「寛容」という言葉は、松本幸四郎演じるカエサルを通じて我々観客の胸にズシンと響いてくる。

 演出的には、石柱を盆で廻し、シーンを切れ目なく継続させていく工夫などがされているため、エピソードは切れずに繋がっていく。また、台詞を頼りに物語をどう正確に伝えていこうかということに執心しているようでもあり、2幕冒頭の亡霊とカエサルが対峙するシーンなどは、その演出が見事に結実した場面であると思う。

 それぞれの場面を捌き方は上手いなと思うのだが、テキストと役者を注視する演出家の視点は、その作品を覆うローマという時代そのものの空気感を体感させてくれるような雰囲気造りにまで手さばきが及んでいない気がする。石柱やトーガ以外にも、可視的、可聴的なるもので、何かその時代の雰囲気を醸し出すことは出来なかったか。「ローマ人の物語」であり、「カエサル」でもある。全体を貫く、何か一貫した強烈なローマというものが立ち上ってくると、作品がさらに豊かな香りを放つことになったと思う。

 小澤征悦は安定感があるが、高橋惠子演じる母との間の葛藤があまり見てとれない。瑳川哲朗と勝部演之は、重鎮の存在感で作品にグッと重厚感を与えている。渡辺いっけいの軽妙さは異彩を放つが哲人の重みが感じられない。高橋惠子は何ものにも捉われることのない奔放さでカエサルの洒脱と上手く拮抗する。水野美紀は意外な役どころで新たな顔を見た気がする。小島聖はクレオパトラのカリスマ性ではなく人間性を滲み出させるが、強烈な御仁の中において少々印象が薄い。小西遼生はピュアさが際立つが初代皇帝の資質の核が見えてこない。

 松本幸四郎の力はやはり偉大である。例えその作品がどのような要因を持っていたとしても、それを自らに引き付けパワーアップさせてしまう天賦の才能を持ち合わせている。松本幸四郎が造形するカエサル像が、本物のカエサルと似ているかどうかということは、もはや問題では無い。カエサルのエッセンスを松本幸四郎が掴み取り、自らの肉体を通すことで、ある一人の英雄の生涯の断片を浮かび上がらせていくのだ。松本幸四郎を得て、「カエサル」は、カエサルに生命を吹き込むことが出来たと思う。