劇評147 

追随するものなき独自な異彩を放つ秀逸な集団劇


「シダの群れ」

 

2010年9月18日(土)晴れ
シアターコクーン 19時開演

作・演出:岩松了 
出演:阿部サダヲ、江口洋介、小出恵介、
   伊藤蘭、風間杜夫、近藤公園、江口のりこ、
   黒川芽似、尾上寛之、「ジョンミョン

場 :  劇場に開演10分前に着いたのだが、エントランス脇にある当日券売り場が開いていました。完売の演目ですが、当日券なら鑑賞可能なようですね。ロビーはいたって落ち着いた感じ。会場内に入ると、緞帳は上がり、セットが露わになっている。どうやらロフト風倉庫の2階が舞台となるようです。
人 :  満席です。満席の劇場は久しぶりな気がします。客層は幅広いですね。30〜50代の男女が満遍なく来場しています。至って静かに開演を待つ観客の様子に、演劇鑑賞慣れした方々が多いとお見受けしました。

 岩松了の独特な世界観に魅了された。ヤクザの世界が描かれることはチラシなどで事前に分かってはいたのだが、その世界に生きる人々を描きながらも、壊すことが出来ない裏社会の構造自体までを炙り出していく振れ幅の大きさが面白い。しかも、一般の人々が交わすようなごく日常的な会話が成される中、派手な銃撃戦のアクションシーンなどを其処此処に盛り込むなど、一見、相反するかのように見える言葉やシーンを、自然にひとつにまとめ上げながら物語を紡ぎ合わせていく。

 登場人物たちの造形のされ方も、また、独特だ。登場人物の誰もがくっきりと、腹の中にある思いと、表の顔とを見事に使い分けるという二重性を抱えながら日々を生きているという設定だ。しかし、その裏腹な思いとは一線を画す男が一人いる。それは阿部サダヲ演じる下っ端のチンピラ、森本だ。彼は、可笑しいと思うことは黙っていることが出来ず、ヤクザ社会のヒエラルキーを超越してストレートに行動し、硬直した組織に少々風穴を開けていく。しかし、その根底にあるのは、兄貴分である江口洋介演じるタカヒロを慕う思いがあってこそ。ただ無鉄砲な一兵隊ではなく、行動規範にも彼なりの原則があるわけだ。

 ただし“長いものに巻かれろ”ではないが、少々ほころびを作った程度では、連綿と堅持されてきた鉄壁な組織体制を変えることなど到底不可能であるということが、森本の感情にもだんだんと染み入ってくる。何も変えることなどできない状況の中で喘ぐ人々の、その感情のヒダをピンセットでつまむがごとく写し取る岩松了の繊細な筆致が、観る者の心にもグサリと突き刺さる。

 見えない何かに覆われた世界であくせくと働く登場人物たちに、次第に今の己の姿が投影されていく。いつしか、その遣る瀬無い思いは、観客自らの鬱屈した感情が舞台上で認知されているのだという安堵感により、徐々に癒しのレベルへと昇華され心地良さに包まれていく。

 徹底して集団劇という形態を崩さない、一貫した構成も見事であると思う。多分当て書きなのだと思うが、全ての登場人物には均等に出番や見せ場が設けられており、戯曲構造上もスターと新人のヒエラルキーはなくフラットだ。キャストには売れっ子俳優が多く居並ぶが、細かな動きや台詞回しに至るまで個々の自由裁量の度合いが低いように感じられ、岩町了の指導が徹底して成されているようにも見える。故に、役者の資質が演じる役柄の色へとスライドすることとなり、ベテランも新人も似たようなトーンを醸し出すことになる。しかし、そのある種の枠組みの中に個性を閉じ込めることによって、逆に、役者の個性が際立って見えてくるようになるのが面白い。

 登場人物には、行動面においても独特なアプローチが成されている。シンクを拭いたり、神棚を修繕したりしながら会話を交わすことが、行動と台詞との間に隙間を与え、何か心の奥底にあるしこりのようなものを染み出させていくことになる。また、突然歌い踊ったり、コーヒーを点てることに執心したりする、一見本筋とは関係ないように見えるシーンを意図的に挟み入れたりすることが、物語の意味性を敢えて壊すかのような異化効果を生み出していく。

 物語が展開していく中で、先程語られてはいたのだが、そのまま捨て置かれていたかに見えた台詞につながるような言葉が、ふと語られたりもする。登場人物の思いが切れずに繋がっていたということで、人間の感情というものは整理をされて理路整然と語られるものではなく、そもそも交錯していること自体が当たり前なのだということを思い起こさせてくれる。登場人物たちの感情は、物語の展開から距離を置くことで、一ところに留まることなく常に逡巡し続けているという、その描かれ方自体が現実世界そのものを表していくことになる。そうした繊細な感情をも掬い出していく作者の思いが、作品により温かな繊細さを付け加えていく。

 唐突な悲劇が起こり舞台は幕を閉じることになるのだが、その事件もあくまでも日常の延長戦上の事であり、特別な意味性は敢えて排されているように思える。避けることが出来ずに、既に起こってしまった出来事なのだと。しかし、そこには、諦めというよりも、事象を見つめるじんわりとした優しい視点が観る者の心に染み入ってくる。演劇的な外連味などとは大きく距離を取るように見せながらも、人間の内面に巣食う葛藤を切っ先鋭く切開して見せる技は、他に追随するものがない秀逸さを放ち独特であった。