劇評142 

時空間が交錯する重層的な傑作戯曲が、平面的な構築物に仕上った。


「ロックンロール」

 

2010年8月7日(土)晴れ
世田谷パブリックシアター 18時開演

作:トム・ストッパード
演出:栗山民也
出演:市村正親、秋山菜津子、武田真治、
   黒谷友香、山内圭哉、前田亜季、
   上山竜司、西川浩幸、月船さらら、
   森尾舞、檀臣幸

場 :  久々の世田谷パブリックシアターである。ビル内にはTSUTAYAが入っており、開演近くまでDVDや本を眺めることが出来るので有り難い。ロビーに入ると、静かな感じ。会場内も同様に落ち着いた雰囲気が漂います。舞台前面には、レコードジャケットのような四角い形状の壁が斜めに吊り下げられている。小さく「ROCK‘N’ROLL」と書かれている。
人 :  8割位の入りであろうか。3階席はつぶしてあるのかな。年齢層は高めですね。40〜50歳代が中心な感じです。ご夫婦や友人同士で来られている方が多いです。最近、演劇の客層は総じて高めですね。演劇は余暇ですもんね。生活必需品ではないので、どうしても生活に余裕のある方々しか来なくなってしまうんでしょうね。また、チケット代が高いということも要因かもしれないです。不況の余波は確実に演劇界にも及んでいるようです。

 1927年にチェコで生まれたトム・ストッパードは、幼少期にナチス侵攻から逃れるため両親と共に故郷を後にする。そして、シンガポールへと亡命し、その後インドに移ることになるのだが、シンガポールに残った軍医の父が日本兵に捕らえられ死亡した後、母の再婚を機にイギリスへと居を移すことになる。この実人生自体が既にドラマチックであるが、革命や侵略が歴史を大きく転換させていく様をダイナミックかつ繊細に描きだした本作に、氏がこれまでに生きてきた半生が反映されていないわけがない。

 しかし、氏の筆致はあくまでも冷静だ。生まれ故郷であるチェコの民主化運動「プラハの春」の時代から、共産主義が崩れ去った90年代に至るまでの時代を、イギリスに住むマルクス主義者のケンブリッジ大学教授と、故郷のチェコに帰った教え子であるヤンを通じて、この大きな時代のうねりに翻弄される人々の姿を炙り出す。そこには大規模なデモや闘いのシーンなどは一切なく、あくまでも人々の日常の生活を描くことによって、逆に社会を照射させるという手法を取っていく。

 そして本作の一番の特徴は、タイトルにもなっているその時代が生んだ「ロックンロール」が、全編に至って幕間に流れるということ。1960年代当時は、反社会的ムーブメントのシンボルの様に扱われていたロックであるが、時代の変遷と共にその社会的な澱が全て剥ぎ取られ、闘いを無意味だと断じ、愛を持って自由に生きていくことの大切な思いが、現代を生きる我々観客たちに届けられることになる。このオリジナリティ溢れる一種の異化効果が、登場人物たちの人生を俯瞰して眺めるという視点を持ち得ることとなった。

 戯曲の重層的な構造は、物語の核をシンボリックに炙り出していく効果を効かせていくが、その物語を開陳していく演出のアプローチが、学問的でいて少々物足りない。言葉の意味を、時代の空気を、台詞にどう載せて行くのかに演出のポイントが置かれているようであり、この壮大な戯曲に描かれた感情のヒダの1枚1枚を読み解くことに執心している。故に、物語が手のひらサイズの小ささに納まってしまい、時空を一気に貫くようなダイナミックなスケール感に乏しい印象を抱いてしまうのだ。時代というファクターが、透けて見え難くなっていると思う。

 ケンブリッジ大学教授マックスの家のダイニング・ルームが度々登場するが、舞台の決まりごとで客席側にはもちろん壁も何もない状態になっている。しかし、この手前全面には、本当に何の壁もないかのように、登場人物がどの地点からも出入りが可能になっているという設定も解せない演出である。部屋の手前は庭という設定なのだと思うが、どの地点からでもその庭へと自由に出入りできるため、食器棚、ダイニング・テーブルが据えられ、玄関や奥の部屋へと通じるドアなどがあるにも関わらず、まるでオープンテラスのような状態なのだ。不思議な家である。

 市村正親は30年以上に渡り揺ぎ無い信念を持ち続ける大学教授を演じ、その老いの姿も見事に説得力ある演技を披露する。秋山菜津子は1部では大学教授夫人を、2部ではその娘を演じるが、くっきりとそれぞれの役柄の悩みや痛みをストレートに発する役どころで、クッキリと女のリアルな心情を演じ分けで見事である。

 武田真治は年齢を経るごとに、正直、その年齢に見合う老いが感じ取れない悔しさがある。時間の経過が彼に与えた、内面や外面の蓄積がなかなか感じ取れないのだ。黒谷友香には驚いた。30年間に様々な変遷を経て大学教授マックスと添い遂げるようになるのだが、全く見た目が変わらないのはいかがなものであろう。決して大袈裟な老けメイクが見たいわけではないのだが、若く美しいままであるという、この変化のなさ具合はどう見てもおかしいと思う。対する市村氏のアプローチと比較してもバランスが取れていない。長い時を経ても変わらず見える人も現実にも稀にはいるのかもしれないが、観客の思いを重ね合わせることができず違和感を抱かせてしまうことになるのであれば、このアプローチは失敗だと思う。また、そういう行為を容認した演出家もおかしいと思う。前田亜季の一本調子の学芸会的演技はパッショネイトだが感情の細かなニュアンスが感じられない。山内圭哉は独特の個性で反動分子を演じ新鮮な印象を残す。

 戯曲の力強い世界観を市村正親や秋山菜津子が牽引するが、どうしても他の役者たちが、その足並みを揃えられなかったという悔しさが残る。また、演出は時空が交錯する重層的な本戯曲を、平面的な構築物として作り上げてしまったという印象は免れない。さらに、より深くこの作品世界に斬り込める余地は充分あると思うので、公演を重ねることでより戯曲の核心に迫ることが出来るよう期待したいと思う。