劇評139 

ピナの意思を受け継ぎ作品は死すことがないことを証明した珠玉の舞台。


「私と踊って」

2010年6月13日(日)晴れ 新宿文化センター 大ホール 14時開演

振付・演出:ピナ・バウシュ 美術・衣装:ロルフ・ボルツィク
音楽:古いドイツ歌謡より リュート伴奏、独唱、合唱
出演: ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

 

場 :  新宿文化センター大ホールのロビーの1角に、ピナの大きな写真が飾られた小さな花祭壇が設えられている。多くの方がその祭壇の前で写メを撮っている。もうピナはいないのだというリアルがそこにはあった。しかし、写真の中で微笑むピナを見ていると、心の中に住み着いているピナは、もう永遠に居なくなることはないのだということにも気付くことになる。
人 :  場内はほぼ満席。見た目の印象だがクリエーター系っぽいお洒落な方が多い気がする。着ているものも、皆、センスがいいのだ。大概、皆、友人同士とか、パートナーと来ている方が目立つが、私が座った最前列の席は、皆、お一人来場率がとても高かった。そうなんです、チケットには5列と記されていたので、てっきり前から5列目の席だと思っていたのですが、最前列だったので驚きました。

 開場時から既にステージではパフォーマンスが始まっている。プロセニアムにぴったりと合う形で黒い壁が舞台上に設えてあるが、丁度中央の部分にはドアの大きさ位の穴が開いており、その向こうの様子が垣間見ることが出来るようになっている。舞台上では、柔らかな衣装を身に纏った女性と、黒いコートに身を包んだ男性が、何やら小声で呟きながら、行き来しているのが見える。

 その手前に張り出された舞台上には、デッキチェアに座ってその光景を眺めている一人の男がいる。男の目に映っているのは、一体何なのであろうか? 追想、幻影、あるいは希望? 観る者のイマジネーションを想起させるプロローグである。

 開演が近付くと、だんだんと女性たちの声が大きくなり、皆が揃って歌を詠唱し始める。黒い壁が取り払われステージが出現する。すると、バラバラに動き、囁いていた男女が手を繋ぎ合い始め、だんだんとひとつ大きな輪を作り、円陣を組んでクルクルと大きく回り始める。但し、皆、決して楽しそうに回っている訳ではない。ただひたすらに、夢中に、一所懸命に舞い回っているのだ。それぞれが自分という個を持ちつつも、こうして融合していく様に、人と人が、男と女が、心の結び付きを渇望しているのだという意識が具現化されている様にも感じ、儚い哀しみが自分の意識下からも徐々に湧いてくることに気付くことになる。

 すると、舞台の白い床から切れ目なく地続きに巻き上げられ背景となった、急勾配の滑り台のような白い壁に向かって皆が駆け上ってはずり落ちてくるという無為な行動を何度も皆が反復し始める。挑戦、あるいは諦め。そんな中の女性の一人が手前の男性と対峙し、請うように哀願したり、大きな声で威嚇したりしながら、「私と踊って」という意思を伝えていこうとする。しかし男性は「邪魔だ、消えろ」と女性に取り合うことなく、追いつ追われつつの関係性が繰り返されることになる。

 この行き違う矛盾を孕んだ関係性が作品の核となり、男女の、ひいては世界の状況をもこの空間に照射することになっていく。舞台上ではさまざまなエピソードが散りばめられていくのだが、決して物語として収斂することはない。そこが白眉である。観客はそれぞれのシーンと対峙しながらも自分の内面を問い正すことになり、自分なりの解釈を紡ぐことになっていくのだ。

 作り手側がこうした意味性を取り払うことにより、そこに真実がクッキリと浮かび上がってくるというその展開に、何故か段々と胸騒ぎが起きてくる。そして、その思いを感受している内に、まるでセラピーを受けているかのように次第に心が癒されていくのが分かるのだ。その自己の思いの揺れを自覚していくプロセスが、実に心地良く、また、ダイナミックな経験にもなっていく。

 執拗に男性を挑発する女性であるが、今度は逆に、男性の方が女性を追い駆けるようになると、女性はだんだんと男性が疎ましくなっていく。この危うい均衡。木の枝で女性を叩き突けるように追いやっていた男性が、今度は女性を求め始めるのだ。このあまりにも普遍的で其処此処で良く見かけるようなシーソーゲーム。しかし、肉体の限界まで自分を追い込み自己表現していた全ての光景が脳裏をかすめるため、この交わることの難しい乖離した感情の綾に、心がえぐられるような思いを抱くようになる。我々観客の共感を捻って説き伏せるがごとく、決して成就することのないこうした感情を叩き突け、問うてくるのだ。生きるとは、何なのだと。

 ピナの舞台を前にすると、ただの一観客でいることは決して出来ない。いつも心の小トリップを体感してしまうことになるからだ。だから、観客席を後にする時にはいつも、新たな自分を発見していることに気付かされることになる。

 カーテンコールにピナの姿はもちろんない。しかし、その空白を埋めるがごとく、ダンサーたちが、より力強く、より緊密な関係性で作品創りの取り組んでいることがヒシと伝わり、作品は死すことがないのだということが見事に証明された珠玉の公演であったのだと、ひしと感じ入った。