劇評133 

バーコフの美意識が貫かれた静謐なアクロバット・アート。


「変身」

2010年3月6日(土)晴れ
ル・テアトル銀座 17時30分開演

原作:フランツ・カフカ
脚本・演出・美術・音楽:スティーブン・バーコフ
キーボード:滝本成吾
パーカッション:朝里奈津美
出演:森山未来、穂のか、福井貴一、丸尾丸一郎、
    久世星佳、永島敏行

 
場 :  初日である。しかし目立つような華やぎなどは特になく、至って普通な感じです。ル・テアトル銀座への来場は久しぶりです。立地といい、劇場の造りといい、芝居を観に来たと思わせる雰囲気がありますね。売店ではパンフの他、カフカの「変身」の文庫本なども売られています。
人 :  女性比率が高いですね。8割位を占めているのではないでしょうか。しかも年齢層が幅広いんです。20代から50代以上の方々まで、満遍なく様々な方々がいらしてます。やっぱり森山未来のファンなんですかね。ちょっと何を目的に来られているのかが分かり難いのですが、何故かヒタヒタと熱気は感じられるんですよ。ちなみに、私の興味は、スティーブン・バーコフです。開場時、ロビーで談笑されていたんですが、格好良いですね。アーティストのオーラが出まくりです。

 前回の公演はもう18年前になるんですね。確か、アートスフィアの開館記念プログラムだったと思う。主演は宮本亜門。既に演出家として売り出していた氏が、役者として出演するというのが新鮮だったことが思い起こされる。今回の主役は、森山未来。彼は宮本亜門演出の「ボーイズ・タイム」のオーディションに勝ち残りデビューした経歴を持っているが、たまたまなのであろうか、DNAを受け継ぐがごとく、ザムザ役がバトンタッチされることになった。

 緞帳が下りたまま会場は暗転し、そして舞台に照明が入る。すると一瞬にして舞台上に、日常とは全くかけ離れたモダンアートのような世界が突如として現出する。鉄枠だけで象徴的に造られたザムザの部屋。その場がどういう状況であるかという状況説明を一切排した照明プラン。そして役者たちがまとう、衣装、ヘアスタイル、メイクは、例えば、パリコレのごとく、その装い方自体がひとつのプレゼンテーションとして成立するようなクオリティに満ちていて、これもまた物語の内容や社会状況を説明する役割は一切担っていない。可視的なるもの全てがスティーブン・バーコフの美意識で構築されており、それが圧倒的なパワーとなって観客に押し寄せてくる。

 クリエイティビティの総合力とでも言ったら良いのであろうか。演技の所作ひとつに至るまで、バーコフの目が配られているようだ。それは世界最先端の切っ先を持つエッジの効いた美しさを表現するのと同時に、いつ脆くも崩れ去るがごとく危うい退廃さを秘めた感覚も持ち合わせるという、退廃したヨーロッパ的な感性とも言えるような滅びの美学が染み出してくる。ここでは内側から腐りかける一歩手前の果実の美味さを堪能するが如く、ただただその世界観に酔い痴れるのが得策だ。

 また情感を最優先しない演技、ある意味ストイックとも捉えられるこの独特な手法で、役者それぞれに自らの役柄のスピリットを掘り起こさせ、その核を肉体を通してシンボリックに表現することをバーコフは求めていく。そこではことの本質をカリカチュアライズさせ、モダンダンスと融合させた表現とでも言うべきパフォーマンスが繰り広げられる。可笑し味と、オーバーアクションとの緩急が独自のリズムを生み、また登場人物の感情を拾い上げ押し広げる役割を担うキーボードとパーカッションの生演奏が、作品全体にふくよかなアクセントを付加させていく。

 この綿密に構築された世界に放たれた役者陣は、初日で少々硬い印象があったが、スティーブン・バーコフが求める世界観を十分に搾り出していたと思う。特に、ザムザは難役だ。もちろん特に扮装のないまま、虫となった自分を表現していかなければならないのだから。ここで大きな役割を持つのが、肉体の動き。ダンスを体得する森山未来がそのスキルを最大限に活かし、静謐なアクロバットのような表現でザムザを造形していく。舞台上には、虫になったザムザがしっかりと存在していた。

 丸尾丸一郎の下宿人がもうけ役だ。異分子としてこの劇空間に侵入し、虫になったザムザを抱える家族の秘め事を暴いてみせる。中世の貴族とも醜悪なパンクともとれる出で立ちが滑稽で面白い。永島敏行演じる厳格だがだがこすい父、瞬間瞬間の状況に対応するしか術がない久世星佳演じる母、またそんな父母と兄ザムザに翻弄されつつも自分のスタンスは守り抜く妹・穂のか、そして福井貴一演じる規律に縛られたザムザの上司。この絶対的な世界観に呑み込まれることなく、何故か役者それぞれの個性が際立ってくるのが不思議で面白い。型を演じることで、役に息吹を吹き込むことを可能にさせているのだ。バレエや歌舞伎などにも通じる域に、創作のベクトルが向けられているのだと思う。

 他に例えようのないこの世界観は一見の価値はあると思う。現代の日本人の感覚では多分創ることが困難な表現の一種だと思う。美醜両者は紙一重に共存するという混沌が、まるで世界の本質であるとでも言わんばかりにアジテーションしてくる本作は、傑作アートに触れた時のような刺激に満ち溢れていて、唯一無二の表現手段を獲得していたと思う。