劇評126 

いくつもの視点を抱合する優秀な才能たちが、演劇をアートにまで昇華させた。

大衆演劇“リケエ”バージョン「赤鬼」


2009年11月21日(土)晴れ
東京芸術劇場小ホール2 18時30分開演
原作:野田秀樹
翻案・演出:プラディット・プラサートン
出演:マカムポン・シアターグループ、
    タイ伝統楽器演奏楽団


現代演劇バージョン「農業少女」


2009年11月22日(日)晴れ
東京芸術劇場小ホール1 15時開演
原作:野田秀樹 翻案・演出:ニコン・セタン
出演:バンコク・シアター・ネットワーク(BTN)
場 :  「赤鬼」は、能舞台のように張り出したステージの3方に客席が設えられ、見上げる感じで鑑賞する客席構造になっている。正面側の客席で観たのだが、椅子は劇場の通常仕様のグリーンのものであった。
「農業少女」は、やはり舞台3方が客席なのだが、客席側がコロシアムのようにせり上がっており、見下ろすカタチで鑑賞することになる。また客席に役者が座ったりと、会場内を駆使した演出も施される。客入れ時には大きなトレイを持った男女が客席内を廻り、小さな紙コップに入った温かいお茶をサービスしてくれる。後に、このサーブしてくれた男女が役者の方々だったと分かる。
人 :  両公演共ほぼ満席。若干の空席がある程度の入りである。客層は「赤鬼」の方が年齢層が少し高めな気がする。「農業少女」は、若い学生風な方も目立つ。また、出演者の知り合いの方も多いようで、終演後は楽しそうに歓談をされていた。


  「赤鬼」は、タイの大衆芸能“リケエ”の様式で演じられる。起源は、マレーシアからのイスラム系移民により伝えられたイスラム教の詠唱“ディケー”にあるという。タイの伝統楽器による伴奏に台詞をのせ、一種のタイ版ミュージカルのような形式で物語は進行していく。衣装もタイの古典舞踊などで着られているような、ゴールドを多用したきらびやかなものなので、演目は「赤鬼」なのだが、一見、タイ古典舞踊の様相だ。台詞は舞台上下にあるスクリーンに字幕が投影される形式である。

 


  様相は独特であるが、中身はしっかりと「赤鬼」であった。原本を、ただタイ風な演出を施しただけとも言える位、野田秀樹の戯曲に忠実だ。器を入れ替えても見事に成立する戯曲の素晴らしさを再認識すると共に、タイのアーティストのクォリティの高さも感じられる作品に仕上がっていた。

 
 


 伝統に裏打ちされた技術が魅力的であるのはもちろんなのであるが、役者たちのコミュニケーション能力が極めて高いことにも驚いた。舞台の上で演じられる日常とは別次元の話を、役者たちはしっかりと客席の地平にまでブリッジして届け、観客をうまく話に巻き込んでいくことを飄々とやってのけるのだ。これは、役者としての資質というよりは、一人の人間として、他人に心を開いているから成せる技なのではないかと思う。


 


  相手のことを思いやるという視点を、きっと普段の生活から持ち得ているのだ。そこには、自我の強い独りよがりな我がままさなどは微塵もないため、だんだんと観ているこちら側も、気持ちが良くなってくる。しかもタイ語で、タイの装束で、タイの伝統音楽である。しばし心はタイへと飛翔しゆったりと癒され、また話の展開にもキューンと胸がしめつけられた。極上のエンタテイメントがたっぷりと五感で堪能出来る秀作に仕上がったと思う。

 
 


  「赤鬼」もそうであるが、「農業少女」にも装置らしい装置は存在しない。いくつかの箱が、椅子やビルになったりはするのだが、このイマジネーションを喚起する手法が随所で見事に成立しているのだ。一瞬の内に状況や人格がチェンジするスピーディーな展開は野田芝居の醍醐味だが、その難易度の高いハードルを易々とクリアしているのだ。台詞はイヤホンガイドで日本語のフォローがされている。







  作り手も演じる側も、クレバーだということなのだろう。いらないものを出来るだけ削ぎ取ってシンプルに真髄のみを抽出するのは、上級のアーティストだからこそ出来る技であるが、このカンパニーは誰もがその上級の感覚を身に付けている。役者たちのプロフィールを見ると、皆、役者以外の肩書きがあるんですよね。作家、演出家、音楽家、プロジェクト・マネージャーなどなど。だから、役柄や物語なども、いい意味で客観的に捉えることが出来るのでしょう。どう見えるのかという視点が欠如したアーティストは、逆に観るのが辛いですからね。「赤鬼」同様、こちらのカンパニーの役者たちも、コミュニケーション能力の高さが、やはり目に留まります。






  翻案・演出:ニコン・セタンは素晴らしい才能だと思うが、パリのルコック国際演劇学校で学んだとある。やはり他流試合をされているんですね。文化を創造する者は一部の例外はあるにせよ、やはり様々な文化と対峙することで、更に硬度の強い作品を生み出すことが出来るのかもしれない




  充分に堪能できた濃密なひとときであった。演劇を観たというより、刺激的なアートを体感した感覚に近い観後感である。それは日常をなぞると言うよりは、現状に発破を掛ける提案になっているということだ。他のタイ演劇を観たことはないが、野田秀樹のような卓越した才能のDNAが、異国の地でこうして花開いているとは、日本人もうかうかしてられないなと、ヒシヒシと感じさせられたプロジェクトであった。