劇評113 

日本人としての生き方を問う衝撃作。

「春琴」


2009年3月7日(土)晴れ
世田谷パブリックシアター
午後7時開演

演出:サイモン・マクバー二―
出演:深津絵里、チョウソンハ、
立石凉子、内田淳子、望月康代、
麻生花帆、端木健太郎、高田恵篤、
下馬二五七、本條秀太郎(三味線)
場 : 会場に入ると、幕は既に上がっており、舞台奥には大きな壁が立ちはだかっている。この劇場は正方形に近いプロセ二アム舞台である。タッパがかなりある。造りとしては日本では珍しい形態であると思う。そして、床が木のフローリングである。この木が舞台音響効果にどう反映されるのかは定かではないが、鑑賞中、大抵誰かかが、何故か、チラシの束だか、携帯だか、鍵だか、何かを落とすんですよね。その時の音の反響といったら! 芝居の集中が途切れる程です。
人 : ほぼ満席。若干の空席がありますね。年齢層はやや高めかな。40歳代が中心な感じです。男女比も半々くらい。一人で来ている率は少ないですね。土曜のソワレということもあるのでしょうか。男女のカップルが目立ちます。


  初演時に様々な評価を受け数々の演劇賞を受賞した作品の再演だが、この「春琴」は、日本人ですら成し得なかった、日本の本質、というものを見事に抉り出していて白眉である。現在のそしてこれからの日本を、明治という時代の地点からパースペクティブに照らし出し、一気に日本近代史の底辺に流れる日本人のスピリットの変遷を、冷静に紐解いていく様は圧巻だ。

 


  常に、幾重もの客観的な立場からの視点が交錯し、情感一本で押しまくることもなければ、物語のうねりに翻弄されることもない。随所に、常に冷徹な分析眼が光っており、ひとつの物事がいくつもの解釈で成り立つような仕掛けが施されている。何だろう、チリチリと脳みそを刺激されるような、知的興奮に満ち溢れているのだ。かつて、シュレシンジャーがイギリス人であるが故にアメリカの現実を映画で描ききったのと同様に、イギリス人であるサイモン・マクバー二―の手で日本が料理されることで、我々すら気付かなかった日本人の秘めたる陰翳までをも掘り起こしてしまったような気さえする。そこが面白い。余談だが、007最新作で、サイモン・マクバー二―、いい味出していましたよね!
 
 


  当初、テキストは、サイモン・マクバー二―が谷崎淳一郎の「陰翳礼讃」で全体を構成しようとしたらしいが、後に「春琴抄」の人物設定を得て、両者を合体させ再構成していったという。しかし、物語は、現代の日本において、立石凉子演じる女優が「春琴抄」の物語をラジオドラマとして朗読していくという枠組みとなっており、彼女が物語を語っていくことで、その世界が立ち上がってくるという仕掛けなのだ。現実の女優も、男女の問題を抱えており、物語を読みながら物語と意識をシンクロさせ、自らの気持ちを変化させてもいく。
 


  主役の春琴は深津絵里なのだが、幼い頃の春琴は人形が演じることになる。深津絵里は黒いスーツを身に纏い、文楽のようにその人形を操りながら、腹話術師のように言葉を当てていく。しばらくは、黒子のような風体で舞台上に存在するのだ。何ともチャレンジングな設定である。その春琴に対する役者たちは、その人形と生身でぶつかってゆく。観ている分にはその設定も違和感がなく、また、春琴の抑圧された意識の状態が比喩としても伝わってくるので、エキサイティングですらある。しかし、この状況を成立させてしまえるということは、並大抵のスキルやパワーで出来ることではない。後半、あるきっかけで、春琴は生身の深津絵里が演じていくことになるのだが、それまで人形が演じていた状況から自然に生身の春琴へと姿を移行させていくのだ。このパワーの配分の仕方というのか、バランス感覚が絶妙であるというのか、一貫して同じ人物を生きていたからこそこのナチュラルな変遷に説得力を持たせられるのだ。驚異ですらある。
 
 


  美術や映像もアートである。何人かの役者が細い木の棒を持ち、ある時は部屋のへりを形作るエッジとなり、襖の開け閉めなどもその棒を動かすことで表現し、ある時は階段、そしてまたある時はしだれ柳となり変幻自在にその形態をクルクルと変化させていく。また、畳も瞬時にその枚数や合わせ方で、様々な部屋や廊下を造形していく。その造形後に、照明が一歩遅れてその情景を確認するが如く丁寧に場を照らし出していく様などは、作り手と観客との間に生まれた、舞台が作り事だとを認め合うかのような共犯関係のサインのような気さえした。また、春琴が三味線の師範であることから、実際の三味線弾きが、背景でその音色を奏でるライブ感も贅沢極まりない。



  女優は物語を読み終え現実の世界へと戻っていくが、登場人物たちは、未だ、その精神を舞台の上に残し続けている。その陰翳ある残像ともいうべき姿が段々と暗闇に溶けていき、今の日本に氾濫する電子音などが鳴り響く中、登場人物たちは上から降りてきた壁の向こう側へと消えていく。そしてひとつ三味線が残されるのだが、降りてきた壁がその三味線をぶち壊すのが、ラストシーンなのである。ショッキング!であった。この壊された三味線を見て何を思うかを、サイモン・マクバー二―に問われた気がする。私たちは、何に起因して日本人であり、これからどう生き、何を伝えていかなければならないのか。その命題はとてつもなく大きいが、まずは、自らがどういう第一歩を踏み出していくのかが重要なのだとも語り掛けてくれているようなのだ。