劇評105 

アッカーマンが主張する、真実の捕らえ方、そして、生き方。

「1945」






2008年11月2日(日)晴れ
世田谷パブリックシアター
午後2時開演

脚本・演出:ロバート・アラン・アッカーマン
脚本・演出補:薛珠麗
出演:中村ゆり、山本亨、パク・ソヒ、
   瀬川亮、松浦佐和子、高橋和也
場 : 会場に入ると、既に幕は上がり、セットが設えてあるのが見えている。「1945」というタイトル通り戦後の日本が舞台のようで、美術も廃墟の様相。中央には階段。その上は狭い幅ではあるが街頭が広がる。そして、やや下手側に数段の階段があり、その上の下手奥には舞台袖につながる土手が続いている。また、舞台端、下手手前には鉄枠階段が付いた柱があり、上り下りが出来るようになっている。そして、その街並みを覆うかのように、広島原爆ドームの屋根を思わせる円錐の屋根が、宙に浮いている。かなりの凝った作りのセットである。美術は今村力。映画の美術監督の重鎮である。
人 : ほぼ満席。結構1人で来られている方が多いかな。また、お知り合い・関係者風の方も多く見られる。年齢層は30〜40代中心の高めな感じ。若いコたちの姿はあまりない。


 アタマで作られた演劇という気がした。今回は、アッカーマンが、芥川龍之介の「藪の中」を題材に取ったオリジナルの新作戯曲を自ら書き、演出した作品である。当初、脚本には青木豪がクレジットされていたが、パンフレットを読むと、青木豪が多忙につきこの作品を手掛けられなくなったとあった。台本と演出がアッカーマンという強烈な個性を持つひとりの人物から造形されていったということもあろうが、まずは、こういうことを言いたい、描きたいのだという、熱い思いがあり、そして、意図された刺激的な台詞や演技がどのシーンや人物にも投影されていく。そんなアンサンブルが全体的に積み重なっていく状態のテキストを、アッカーマンは、演出家と言う全く異なる視点でその台本を客観的に捕らえ、理路整然と分かり易く伝えようとしていくのだ。



  アンビバレンツな状態、自分のことを自分で褒めたり語ったりすることに少し照れてしまうような感じなどというと少しニュアンスが違うかもしれないが、言いたい思いと、実際に話すこととの間に、冷静な隙間がある感じなのだ。ひとりのアーティストのアタマの中身を開陳しそこに置いてみた。そして、それをどう見せていくと観客に伝わるかを熟考してみて、その意図を、役者に伝えていく、というサイクル。

 


  作・演出を同時にやられる方は、この本と演出の隙間というか、ホントはそこがメインステージなのだが、役者の力量やパワーへの委ね方がポイントになっていくのだと思う。意図を伝えていこうと役者がすればする程、観客はその意図を甘受することが出来難くなっていくと思う。押し付けがましくなっていくから、気持ちが乖離していくのだ。

 


 しかし、休憩を挟んでの2幕目からは、物語の展開が面白くなってくるので、だんだんと劇中に吸い込まれていく。ある事件が起こるのだが、関係者が語る話はどれも全く違うものなのだ。一体、誰の証言が正しいのかが、「藪の中」へと迷い込んでいく。展開が論理的になってきたからであろうか、演出意図とリンクしてきたようである。また、情景の描き方が面白い。ベタな戦後ではなく、スタイリッシュで洒落た感じなのだ。あと、60人程、街の人々が登場するのだが、あくまでも物語の背景としての登場の仕方で、ひとりひとりが決して突出することなく主張もしてこないので、もっと活かし方があるのではないかと思ってしまう。





 キーパソンとなる女性を、中村ゆりが演じているのだが、声から感情があまり伝わってこない。後半、高橋和也演じるかつての恋人が語る特攻隊での顛末を聞いている姿は絶品だと思った。ひたすら話を聞いているのだが、途中から身体が小刻みにブルブルと震えてくるのだ。嗚咽を噛み殺しているのであろうか、殺気すら感じる強烈さである。そして、いざ、感情をぶちまける段になると、表情の壮絶さとはまるで別個のような、台詞廻し。一気に気持ちが冷めていく。



  この物語は、アッカーマンの、アメリカ、いや、世界に対するメッセージ、であった。1945年以降、世界は嘘で塗り固めた大国によって、大きく変わってしまったのだと、ストレートに主張する。瀬川亮演じる青年がこうつぶやく。「俺は本当のことを知りたいと思うけど」。物語の真実の解釈が観客に委ねられたように、現実世界で起こっている不透明な事件の数々を、我々はどう捕らえ突き詰めていかなければならないのかを、考えさせられる幕切れであった。